岡にも畑にも、一面に雪が降っていた。通る人もなくて、ドンヨリ曇った空が雪の原の上に垂れ下っていた。その原の上を一羽のからすが飛んでいた。疲れているのか低い空を飛んでは雪の上に下り、低い空を飛んでは下りしていた。
その原の一方に岡の上に雪を冠《かぶ》って二階の家が立っていた。その二階の窓を開けて一人の子供が顔をのぞけ、久しく外の景色を眺めていた。煙が土煙のような雲間をもれて、その時夕陽がかすかに子供の顔を照らした。子供は善太といった。
その晩、茶の間の明るい電燈の下で、善太の兄と姉とがいい合っていた。
「姉さん、山っていう字知ってるかい。」
「知ってるわ。そんな字なんか。やさしいじゃあないの。」
「それじゃあ、人って字知ってるかい。」
「猶《なお》やさしいじゃあないの。」
「ええと、それじゃあ——。」
善太の兄の正太は考え込んだ。彼は今小学校の二年で本字を習い始めたばかりである。と、善太が側から口を出した。
「兄チャン、雪っていう字知ってるかい。」
「ゆき?」
正太は一寸《ちよつと》返事につまった。
「そうれ、知らないだろう。」
善太が面白がってひやかした。
「じゃあ、善太知ってるかい。」
「知ってるさ。」
「こいつ、母さんに教わったな。」
「母さんなんかに教わるかい。」
「じゃあ、姉さんに教わったな。」
「だれにも教わらないよ。」
「教わらなくて解るかい。」
「それが解ったんだ、僕今日見たんだもの。」
善太は頭を振立てて大得意である。
「ヘッおかしな奴だなあ。見て解ったの。」
すると、善太がいうのである。
「僕ね、今日、二階の窓からのぞいてたんだよ。そうすると、外の原っぱに書いてあったよ、大きな字で、ゆきって。こんなに大きな字で。」
善太は両手を一杯に拡げて見せた。
「ホ、ホウ、こいつ旨くうそついてやがるなあ。そんなことあるかい。」
正太は信じなかった。
「ホントだよ。ホントなんだよ。」
善太は大真面目である。結局母に双方から訴えた。
「母さん、そんなことがあるかねえ。」
「あるねえ、母さん僕見たんだもの。」
「さあ——。」
お母さんは唯だニコニコしていた。そこで正太は勢いこんでいいだした。
「じゃあ、ゆきっていう字書いてみろ。」
「ウン、書いてみる。」
「ようし、書かなかったら承知しないから。」
正太は机の所に駆けつけ、紙と鉛筆をとって来た。
「ソラ!」
「書くとも、見たんだもの。」
ここまでは大変な元気だったが、さて紙に向ってみると、善太は頭を傾けた。
「えええと、うううん。」
しきりに鉛筆をなめ始めた。
「そうら、書けんじゃあないか。」
正太が側で口をとがらせた。
善太にはどうも不思議でならない。学校へあがらない彼であったが、今日の日暮れ、外の原っぱに実際ゆきという字を見たのである。真白な雪の野原、いや、少し薄ずみ色の雪の原に、大きな大きな字を見たのだ。その時、
「あ、これがゆきっていう字か。」
と、善太は思いさえしたのである。で、今でも忘れている訳ではない。目さえつぶれば、ハッキリ浮んでくる字なんだが——。
「早く書けよ。」
正太が急がしくいった。そこで善太は何度か鉛筆をなめ何度か頭を傾けた後、とにかく紙の上に恐る恐る横に一本筋を引いてみた。
「こうだったかなあ。」
そしてまた首を傾けた。
「馬鹿ッ。」
これを見ると、正太は善太をどなり付け、その紙を引きたくって駆けだした。
「母さん、善太はこれがゆきっていう字だって、今日原っぱに書いてあったんだって——。」
母さんも笑った。正太も笑った。姉さんも笑った。しかしその大笑いの中で、善太はどうしても、書いてあったといってきかない。
「じゃあ兄チャン、今でも二階から見て御覧。キット書いてあらあ。」
「よし、じゃあ、善太も来い。二人で見よう。」
「ウン、見よう。あ、姉さんも来てみて頂戴。」
「ええ、ホントウなのかしらん。」
こんなことをいいいい姉も立上った。
さて三人は二階に上って、原っぱに向いて窓を開けた。外は曇った空にぼんやり月がかかっていた。無言で三人は暫《しばら》く原を眺めた。薄ずみ色の夜霧の底に沈んだような雪の野原、果てしなく遠く人一人通っていない、何だかたよりない気持を起さす雪の野原。
「書いてない?」
善太が聞くのであった。が、姉も正太も字をさがす気にはなれなかった。外に広がる景色は恐ろしく、吹きいる風は寒い。
「ねえ?」
善太は二人の後ろから、尚も返事を迫るのであったが、
「もういいもういい。」
こういって、姉は戸をしめてしまった。
「おお寒い、おお寒い。」
こういって、三人は二階を駆け下りた。その後で、善太は雪という字を教わったけれども、うそだといって信じなかった。