いく日もいく日もふっていた雨が、やっとあがりました。お日さまはうれしそうに、まっ黄いろになって、かんかんてっています。正太のお母さんはおせんたくでたいへんです。張物板を縁がわの戸袋にもたせかけて、そばに大きなたらいをおいて、ジャブジャブジャブジャブとシャボンの泡《あわ》を立ててあらっています。張物板からは湯気が立ちのぼっています。
正太は今日はあたらしいお靴をはかせてもらったのでとてもうれしいのです。
「母ちゃん。」と言い言い、そのへんをよちよち歩いてはたちどまり歩いてはたちどまりしています。
「なアに、正ちゃん。」
「あんあんあん。」
正太は足を、けるように上げてお靴のさきを見て、それからお母さんの方を見て、そしてお母さんのまわりをくるくる廻ってみます。
「母ちゃん、ぼくの足、よろこんでるの。」
「そう、足もよろこんでるの。」
正太はもう少し遠くへ歩いていきたくなって三四間、門の方へよちよちといきましたが、ふと気になって立止りました。
「母ちゃんは? いる。いる。」そこでまた三四間よちよちすすみました。母ちゃんは? いた。いた。ですが、よく見ると、母ちゃんをもうこんなに遠くはなれてしまいました。
「母ちゃアん。」と、さけんで、正太は小走りにもどって来ました。靴のことなぞはもう忘れて、ただ、お母さんだけを目あてに走りました。お母さんは両手をひろげて待っていました。正太はその手の中にとびこんで、お母さんの胸に顔をうずめて、ほッと、あんしんしました。
「母ちゃん。」と言い言いそっと顔を上げてみました。やはりお母さんです。正太のお母さんです。それでまた顔をうずめました。
「さあ、もういいの。」
お母さんにそういわれて、正太はまたかけ出しました。二間いってはふりかえり、三間いってはまたふりかえり、五間目にはかけもどって、お母さんにしっかりだきつきます。そして又かけ出しました。何てうれしいことでしょう。こんなに遠くへ来られるようになりました。こんなに遠くに来てもお母さんはどこへもいきません。でもお母さんがいなくなったら、たいへんです。用心しないではいられません。
「やっぱり、母ちゃんだ。」と、正太はかえって来るたびにそうおもいました。こうしてだんだんと正太は、お母さんからはなれても、お母さんがいなくなることはないと分りました。そこでだんだんに遠くへいき、しまいにはとうとう庭の一ばんはしっこにある鶏小屋のところまでかけていきました。そこは今まで正太が一人では行ったこともない遠いところです。
「母ちゃん。母ちゃん。」とよんでみました。遠くへ来たでしょうというばかりではありません。もし、あのおせんたくをしている人がお母ちゃんでなかったら、どうしようと思ったからです。が、やっぱりそれは正太の母さんでした。ああよかった。そんなら一つこの鶏小屋を廻ってやろう。正太は鶏小屋のかげにかくれました。それと一しょにお母さんが見えなくなりました。お母さんのいないところは何てさびしいんでしょう。お母さんにもう会えないのだったらどうしましょう。だってこうしてる間にお母さんはひょいと見えなくなってしまうかもしれません。正太のいけないところへいってしまうかも知れません。正太はうろたえました。どきんどきんと動《どう》きが打つような気がしました。引き返そうか。前へいこうか。やはり前へいきました。とり小屋のかげから出てみると、おお、いた、いた。お母さんがちゃんといました。
正太は心も身体もおどるようです。で、はねるようにかけ出して、お母さんの腕の中にとびこみました。うれしくてうれしくてからだ中をゆすってわらいました。もうだいじょうぶです。お母さんはなかなかふいにいなくなってしまいはしません。そこでまた正太はかけだしました。また、鶏小屋を一とまわりしました。いるかしらん。いないかしらん。いた。いた。いた。またもどって、お母さんにだきつきました。
「母ちゃん、いたのね。」
お母さんは笑いました。
「いるわよ。お母さんは、どこへもいきやしませんよ。」
「ほんとう。」
「ほんとうですとも。」
「ぼくが大きくなっても。」
「ええええ。正ちゃんをおいて、どこへいくもんですか。」
「ぼく、お父さんのようになっても。」
「ええええ。」
それを聞いて、正太はすっかり安神《あんしん》して、おちついてそこいらであそびはじめました。しかし少したつと、お母さんのそばへ来て、目をつぶりました。目をつぶっている間に、お母さんがいなくなるかどうかを試すつもりなのです。永く永くつぶっていようと思いましたが、でも心配になって、そうっと細目にあけました。いた、いた。正太は口の内で言って、またしっかり目をつぶりました。正太は、これでいよいよお母さんがいなくなりはしないのを知って、お午ごろまで一人でかけまわってあそびました。
それから後も、正太はお母さんのそばでよく目をつぶっては、ためしてみました。そしてそれが正太が学校へいくころまでのいつものくせになりました。