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日本むかしばなし集180

时间: 2020-01-30    进入日语论坛
核心提示:お馬もと庄屋をしていたお祖父《じい》さんは、その頃でもまだ頭に髷《まげ》を結っていました。断髪令と言って、髷を切って、今
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お馬

もと庄屋をしていたお祖父《じい》さんは、その頃でもまだ頭に髷《まげ》を結っていました。断髪令と言って、髷を切って、今頃のみんなの頭のようにせよという規則が出来てから、十年も立っておりましたが、お祖父さんは昔のままの髷を頭の上に乗っけて、それを自慢にしていました。
お祖父さんは一風変った咳《せき》をしました。
「えっへえん——。」
とても物々しい咳き方なのですが、これがまた自慢の一つでした。でも、えへんはいいのですが、くしゃみと来たら、村中へ響くような大きなものでした。
「はっくしょうん——ん。」
初めは普通なのですが、終りのんを長く引張って、もう一つんをつけ加えるようなくしゃみでした。この咳き方や、くしゃみの仕方で、ライオンが一声で狐や兎をふるえさすように村のものみんなを恐れさせると思っていたのでありましょう。
お祖父さんは槍《やり》や刀が好きでした。床の間にはいつも鎧甲《よろいかぶと》が飾ってありました。そしてその側に、鹿の角の刀かけに刀が大小二振のせてありました。長押《なげし》には槍、長刀《なぎなた》、弓などがかけてありました。その下には昔の和鞍《わぐら》と言う、侍《さむらい》の使った鞍が台に乗せて飾ってありました。
その中に坐って、お祖父さんは煙草《たばこ》を吸っては、お茶を飲んでいました。そしてその合間合間に槍や刀の手入れをしていました。お祖父さんは刀を磨《と》ぐのがとても上手で、またその効能を言うことも大変なものでした。お祖父さんは煙草を煙管《きせる》で飲みました。煙管で灰吹きを叩く音がまた中々ぎょうぎょうしいものでした。その叩き方でお祖父さんのその日の機嫌が分るとみんなは言っていました。
お祖父さんが怒ると、それは大変でした。怒ることはめずらしく、一年に一度か二度のことでしたが、おこったとなると、きちんと坐って、側にちゃんと刀を置いていました。これまでまだ一度もそれを抜いたことはないのですが、それには誰でもまいってしまいました。あるとき、町から来た屋根職人が、酔っぱらって、お祖父さんの前へ出ました。そして、お祖父さんのやかましいことを知らないで、つい失礼なことを言いました。すると、お祖父さんは、「無礼ものッ。」と大声でどなって、直ぐ立膝《たてひざ》になり、側の刀を取り上げました。職人はびっくりして、わっと言って逃げていきました。だからもう、刀を側に置いている前へ呼び付けられるとなったら、誰でも始めから両手をついて丁寧にお詫《わ》びをしました。
お祖父さんには仲のいい友だちが一人ありました。それがまたおなじように頭に髷を残していました。その人はその頃馬の先生をしていました。もっとも馬の稽古《けいこ》をする人は他に誰もなくて、ただお祖父さんばかりの先生でした。それでも昔は殿様の馬の先生だったそうであります。
その人は月に何回か、お祖父さんのところへやって来ました。お祖父さんは馬を三頭も持っていました。それでその日になると、作男が二頭の馬をつなぐものへつなぎました。それは今頃の機械体操の金棒のような形をしていて、両側の柱に環がついていました。その環へ馬の手綱を結びました。馬には金銀の模様のついた和風の馬具を乗せました。鐙《あぶみ》などは昔の絵にある佐々木高綱や梶原景季《かじわらかげすえ》の使ったものと同じかっこうでした。
その馬へお祖父さんと馬の先生とが羽織|袴《はかま》で乗りました。手には竹の根で作った鞭《むち》をにぎっていました。
お祖父さんの屋敷の周囲へは広い道が造ってありました。そこを馬場に使っていたのです。道の両側には松が植わっていました。その間を二人の老人がぱっぱっぱっぱっと馬に乗って走りました。ぱっぱっというのは普通の馬の歩き方ではありません。馬に右の前後、左の前後と、片側の両足を一度に上げさせて歩かす歩き方です。これは昔、儀式のときに、殿様の前などでやった乗り方なのでしょうか。こうして乗ると、胸がい、尻がいなどという馬具の飾りがひらひらゆれ、轡《くつわ》がしゃんしゃんと、にぎやかな音を立てました。すると、馬の先生は根鞭で鞍下の革具を打ってはげしい音を立てました。ときには、はいよう、はいようと、とてもすごいかけ声をかけました。
村の子供たちはそんなときいつでも道の両側の松の木にのぼって、枝に鈴なりになって見物しました。それは、こんな二人の侍が馬に乗るのが面白いばかりではありません。お祖父さんは人が見物するのがとても好きでした。馬乗りがすむと、見物していた子供たちにおせんべいを幾枚かずつくれるのがきまりでした。
「おお、よく見てくれたなあ。また来て見てくれるんだぞ。」と、お祖父さんはとてもいい機嫌です。
お祖父さんの馬好きは五里も十里も遠くまで有名でした。馬の甚七さんと言えば、大人はだれでも知っていました。
お祖父さんは若い頃は特にお酒が好きでした。酔っぱらうと、冬でも夏でも真裸になりました。そして褌《ふんどし》一つに刀を一本さしこみました。それで鞍も置かない裸の馬に乗りました。そんなときは馬場などでなく、村の道を乗り廻しました。そして、「若いときからお馬にめして、手綱さばきのほどのよさ。」と、こんな歌を謡《うた》いました。あるとき、それは明治の前で、侍が刀をさして、道を歩いている頃のことだったそうです。お祖父さんは酔っぱらって、この裸の馬乗りをやっていました。春のことでしたが、お祖父さんが馬に乗っていく道の彼方に、一人の人が草の上に寝ころんでいました。
お祖父さんは、それも酒に酔うて寝ているのだろう、ぐらいに考えて、駆けていきました。側を通り過ぎるとき、よく見ると、それはどこかの侍でした。お祖父さんも名字帯刀を許されている庄屋の子でしたけれども、相手が侍ならば、馬から下りて、お辞儀をして通らなければなりません。しかしその侍は眠っているらしいし、馬は駆け足でかけているのですから、えい、かまうものかと思って、そのまま通り過ぎました。通り過ぎたかと思うと、後ろで大きな声がしました。
「こら、待てッ。」
後ろを振向くと、侍は起き上って、刀の柄《つか》に手をかけていました。お祖父さんは困ったことになったと思いましたが、馬は駆けつづけているので、ちぇッ、逃げろと思って、侍が大きな声でどなるのを、聞えないふりをして競馬のように馬を走らせて逃げてしまいました。
それから遠廻りをして家へ帰り、馬を廐《うまや》に入れ、轡を納屋に置こうとして、納屋に入りますと、後ろでまたさっきの侍の声がしました。有名な馬の甚七のことですから、逃げても侍は家を知っていました。そこで大変な勢いで追っかけて来たのでした。侍はもうそのときには刀をぬき放していました。
これを見ると、お祖父さんはその納屋の大きな戸を内からごろごろっと締めてしまいました。すると、追っかけて来た侍は目の前で戸がしまったので、その戸を蹴《け》ったり叩いたりしました。しかし大きな戸ですからびくともしません。侍は、しまいには気狂《きちが》いのように怒りたけって、何をというなり持っている刀をその戸の板へぐっと突きさしました。
「こらっ、これでも開けんかッ。」
侍はそう言って、刀を根元までつッこんで切尖《きつさき》を上げ下げして、どなりたてました。するとお祖父さんは持っていた轡をその刀の先に引っかけ、その上へ手綱をぐるぐる巻きにしました。そして、そこにあった大きな杵《きね》で刀を上から二三度打ち下ろしました。刀は戸の厚い横木に喰い入って、外から引張っても、めったに動かないようになってしまいました。
そうしておいて、お祖父さんはその納屋の別の戸口をそっと開いて、侍から見えない、壁の方へ出て来ました。そこから顔を覗《のぞ》けてうかがうと、侍はぶつぶつひとりごとを言いながら、一生けんめいにその刀を引き抜こうとしています。その間にお祖父さんはしのび足で、そこを逃げだし、裸のまま村のお医者さんのところへ駆けつけました。
このお医者さんはその頃有名な長崎帰りの洋医で、殿様の病気も診る御典医というのでした。その人に侍への仲裁を頼んだのです。お医者さんは直ぐに家来をつれてやって来ました。家来と言っても侍で、刀を二本さしていました。お祖父さんも刀をさして、お医者さんの家来のように側についていきました。
「あなたはどなたですか。私は典医、山川平九郎ですが。」
まだ刀を抜こうと焦っている侍にお医者さんは呼びかけました。これを聞くと、侍は顔色を変えました。
「いや、これはこれは、少し酒興が過ぎましてな、とんだところをお目にかけました。」
これでもう訳なく仲裁がすみました。お祖父さんは知らぬ顔をして、戸を開けたり、刀をとってやったりしました。
この侍がつけた刀の跡が明治になっても、はっきり戸の板に残っていました。これがまたお祖父さん自慢の一つで、いつ頃かいたものか、その刀傷の側に、筆で、こうかきつけてありました。
「嘉永参年参月二十日、甚七遭難の跡。」
でも、お祖父さんは誰に聞かれても、くわしい話はしませんでした。ただ、人にその跡が見えるように、いつも戸をしめて置くことや、その側を通るときのお祖父さんのいかめしい容子《ようす》などで、みんなが、お祖父さんの得意さを察しるだけでした。
日清戦争の終り頃、お祖父さんのただ一人の友だちの、馬の先生が亡くなりました。先生には騎兵中尉になる一人息子がありましたが、これが戦争で死にました。すると、間もなく先生も病気になって死にました。先生は親一人、子一人だったのです。それで先生が死んでしまえば、お墓を建てる人さえありません。
お祖父さんはそれを大変気の毒に思って、先生が死ぬと、自分の髷を切り取って、それを先生と一しょに墓に埋めました。墓も騎兵中尉のと一しょにお祖父さんが建てました。墓には漢文で、お祖父さんと仲がよくて、一しょに馬に乗って遊んだということを彫らせました。
馬の先生が亡くなり、頭の髷を切り落すとお祖父さんはすっかり年をとって、もう馬にも乗れなくなりました。それでお祖父さんは考えた末、屋敷の隅に小屋を建て、その中へ木馬を造らせてすえつけました。その背中の上には昔の鞍を置きました。そしてお祖父さんは羽織袴でそれに乗り、根鞭を叩いて、掛声をかけました。
「はいよう。はいよう。」
馬の首が動くようになっていましたので、
「どうどう。どうどう。」
そんなことを言って、手綱を引っぱりました。その度に木の首ががっちゃんがっちゃんと言いました。でも、生きた馬に乗っていたときより、この木馬のときの方が不思議とお祖父さんは勇ましく見えました。鞭を絶えず馬具の上で鳴らして、すごい掛声で、どなりました。
そのうちにお祖父さんの体は鞍の上で躍り上りはね上りました。じっとしている木馬なのに、これは不思議なことでした。あるときなど、お祖父さんはその木馬から落ちまでしました。これは稽古があまり激しかったせいかも知れません。
お祖父さんはそうした稽古を、子供たちに見られるのをきらいました。小屋にはちゃんと戸をしめ、戸にはちゃんと内から錠を下ろしました。ところが、子供の方では生きた馬より、ずっとずっとこの方が好きで、お祖父さんの掛声を聞くと、小屋の戸口にたかって、節穴や、板の隙間からのぞきました。そしてにッと滑稽な顔をし合ったり、くすくすとしのび笑いをしたりしました。
お祖父さんが稽古を終り、内から戸の錠をはずしかけると、子供らはぞろぞろつながって、納屋や倉の間のようなところへ隠れていき、お祖父さんが、汗だくだくになって家の中へ入ると、またそこから出て来ました。そして、みんなで、こっそり戸をあけて鼠のように中へもぐりこみ、馬の背中へ、一どに五人も六人もかたまって跨《また》がりました。一とうまえの子は、おし出されて、首に抱きつきます。一とうあとの一人は後ろへすべり落ちそうになるので、後ろ向きになって、尻のところを両手でつかんだりしていました。
始めの内はみんなは声を立てないようにして、手綱だけを引いて、首をぎっこんばったんと動かすばかりでしたが、そのうちには、いつでも喧嘩《けんか》を始めました。何にしても手綱を引張るのが一番面白いので、僕が持つ、僕に持たせろ、と争い始めるのです。
みんなは、かわるがわる少しの間ずつしか持てないので、自然引張り方が荒っぽくなり、しまいには「はいよう——。」などと、お祖父さんの掛声を真似るものさえ出て来ました。
すると、木馬に乗れないでいる一人が節穴から外を見て、そらっ、お祖父さんだ、とおどかします。みんなはばらばらと木馬から下りて、その腹の下に縮こまってしゃがみ、声を殺していました。でも、木馬の腹を下からみると、中ががらんどうで、何だか滑稽なのでそのまままた、そこで遊び始めるのでした。
お祖父さんはこんなときには、子供らが馬具をこわすのを心配して、座敷の方で、「えへ——ん。」「えへ——ん。」と言いました。でも、しまいには負けて、子供たちが小屋の中へはいっても、だまっていました。それからつぎには自分で子供らのところへやって来て、馬の乗り方を教えたりするようになりました。自分でも乗って子供に見せました。
お祖父さんの部屋の側にある松の木に鳩が巣を造ったことがありました。お祖父さんはこれをとても喜びました。折々縁側へ出て木の上を舞うている大きな鳥を眺めていました。
ところが、ふとその頃から病気になりました。そして子供らが木馬で騒ぐ声を聞きながら、鳩の子がまだ巣立たないうちに亡くなってしまいました。お祖父さんの葬式には馬が三頭、昔風の美しい鞍をおいて、お供をしました。
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