わたくしの母は、万延《まんえん》元年、備前《びぜん》の国、御野郡《みのぐん》島田村というところで生れました。いまは岡山市島田本町となっているところです。万延元年というと、日本の汽船|咸臨《かんりん》丸というのが、はじめて太平洋をわたってアメリカにいった年です。そしてまた、井伊大老という、いまの総理大臣のような人が、桜田門のところで殺されるという、世の中のそうぞうしかったときであります。明治時代になる八年前のことでもあります。
母の生れた家はいなかの名主、いまの村長さんのような家でしたけれども、母が生れると、すぐそのおかあさんがなくなり、べつのおかあさんがきました。それで、じゅうぶんよみ書きそろばん、すなわち、いまの国語や習字や算数を、ならうことができませんでした。
明治三十年というと、いまから五十六年もむかしですが、わたくしの父がなくなりました。そのとき母は三十七でした。子どもが五人おりました。わたくしはその三番めで年が八つでした。一番下の弟はまだ二つでした。母はそのときからこの五人の子どもをそだてながら、家をまもっていくことになりました。しかし、母は心もつよく、からだもつよく、苦労をじっとたえしのんでいく人でありました。だからそのころ東京の学校へきていた十八の兄は、よびもどしましたけれども、姉もわたくしも弟も、みなそれぞれ小学校へも中学校へも、また、その上の学校へもいかせました。
ところが、そんな母も、ひとつこまったことがありました。三十年も、字一字書くこともなかったものですから、ほとんどその字というものをわすれてしまっておりました。そこへ子どもたちが上の学校へいくようになって、東京だの、熊本だの、ときにはアメリカと、とおくはなれました。そうなると、子どものことのわかるのは、手紙のほかはありません。で、その手紙ですが、書いてみると、そんなにへたではなかったのですが、なにぶん字をわすれていて、かなのほかはあまり知った字がありません。
そこで、母の字引きというのがはじまりました。半紙を何枚かとじたものですが、まんなかに線が引いてあって、上下二段にわかれております。むかし、言海なんていう字引きがありましたが、それでもまねたのでしょうか。それに手あたりしだいに、筆で字をかき、かなをつけ、わけを書くというしくみであります。ふつうの字引きは五十音順にならんでおりますが、母の字引きは、そんな順序はありません。だから、これはおぼえ書きというようなものです。それでもわたくしたちはみんな「おかあさんの字引き」とよんでおりました。
鯛 たい。 これはさかなのたいです。
橋 はし。 わたるはしです。
箸 はし。 これはものをたべる、あのはしです。
こんな調子でありました。なかにはおもしろいのもあって、
恥 はじ。 これは、たびのはじはかきすてのあのはじのことです。
新聞 しんぶん。 まいにちくばってくるあのしんぶんです。よのなかのことがいろいろおもしろくかいてあります。
などというのもありました。わたくしなどはそのころもう中学を出ていましたから、こんな字引きなら手つだいのできないことはなかったのです。それでも母にきかれれば、書いたりおしえたりはしましたが、すすんで手つだいはせず、こんなところをよんでおもしろがるばかりでした。いまから思えば、すこしばかりもうしわけなく、すまない気持がいたします。
さきにも書いたように、母の字引きは手紙用のものでしたから、よむためでなく書くためにつくったわけであります。漢和字引きというのでなくて、和漢字引きというのであります。当用漢字というのは、千何百かあるそうですが、母の字引きには千もなかったように思われます。
昭和五年、母は七十二でなくなりましたが、そのまえ五、六年、学校へかよいました。もとより先生などではありません。しかもそれが小学校五年生くらいだったと思います。わたくしが東京から帰っていますと、家のうらで、
「おばあさん、坪田のおばあさん。」
という小学生の声をききました。母の同級生がさそいにきたわけです。母は、
「はあい、いま行きますよ。」
などと返事をして、大急ぎで、本のつつみとおべんとうをもって、小ばしりに出かけておりました。それからはじめて、その小学校の補習科も卒業しました。その補習科は高等女学校という名になっておりましたから、母は、
「わたしもこんど女学校を卒業してね。」
と、大じまんで、また大よろこびしておりました。かんがえてみると、ちょうど、わたくしのいまの年ごろです。六十五、六のときでしょうか。いまのわたくしにはとてもできそうに思えません。