日语童话故事 日语笑话 日语文章阅读 日语新闻 300篇精选中日文对照阅读 日语励志名言 日本作家简介 三行情书 緋色の研究(血字的研究) 四つの署名(四签名) バスカービル家の犬(巴斯克威尔的猎犬) 恐怖の谷(恐怖谷) シャーロック・ホームズの冒険(冒险史) シャーロック・ホームズの回想(回忆录) ホームズの生還 シャーロック・ホームズ(归来记) 鴨川食堂(鸭川食堂) ABC殺人事件(ABC谋杀案) 三体 失われた世界(失落的世界) 日语精彩阅读 日文函电实例 精彩日文晨读 日语阅读短文 日本名家名篇 日剧台词脚本 《论语》中日对照详解 中日对照阅读 日文古典名著 名作のあらすじ 商务日语写作模版 日本民间故事 日语误用例解 日语文章书写要点 日本中小学生作文集 中国百科(日语版) 面接官によく聞かれる33の質問 日语随笔 天声人语 宮沢賢治童話集 日语随笔集 日本語常用文例 日语泛读资料 美しい言葉 日本の昔話 日语作文范文 从日本中小学课本学日文 世界童话寓言日文版 一个日本人的趣味旅行 《孟子》中日对照 魯迅作品集(日本語) 世界の昔話 初级作文 生活场境日语 時候の挨拶 グリム童話 成語故事 日语现代诗 お手紙文例集 川柳 小川未明童話集 ハリー・ポッター 新古今和歌集 ラヴレター 情书 風が強く吹いている强风吹拂
返回首页
当前位置: 首页 »日语阅读 » 日本名家名篇 » 作品合集 » 正文

日本むかしばなし集205

时间: 2020-01-30    进入日语论坛
核心提示:おかあさんの字引きわたくしの母は、万延《まんえん》元年、備前《びぜん》の国、御野郡《みのぐん》島田村というところで生れま
(单词翻译:双击或拖选)
おかあさんの字引き

わたくしの母は、万延《まんえん》元年、備前《びぜん》の国、御野郡《みのぐん》島田村というところで生れました。いまは岡山市島田本町となっているところです。万延元年というと、日本の汽船|咸臨《かんりん》丸というのが、はじめて太平洋をわたってアメリカにいった年です。そしてまた、井伊大老という、いまの総理大臣のような人が、桜田門のところで殺されるという、世の中のそうぞうしかったときであります。明治時代になる八年前のことでもあります。
母の生れた家はいなかの名主、いまの村長さんのような家でしたけれども、母が生れると、すぐそのおかあさんがなくなり、べつのおかあさんがきました。それで、じゅうぶんよみ書きそろばん、すなわち、いまの国語や習字や算数を、ならうことができませんでした。
明治三十年というと、いまから五十六年もむかしですが、わたくしの父がなくなりました。そのとき母は三十七でした。子どもが五人おりました。わたくしはその三番めで年が八つでした。一番下の弟はまだ二つでした。母はそのときからこの五人の子どもをそだてながら、家をまもっていくことになりました。しかし、母は心もつよく、からだもつよく、苦労をじっとたえしのんでいく人でありました。だからそのころ東京の学校へきていた十八の兄は、よびもどしましたけれども、姉もわたくしも弟も、みなそれぞれ小学校へも中学校へも、また、その上の学校へもいかせました。
ところが、そんな母も、ひとつこまったことがありました。三十年も、字一字書くこともなかったものですから、ほとんどその字というものをわすれてしまっておりました。そこへ子どもたちが上の学校へいくようになって、東京だの、熊本だの、ときにはアメリカと、とおくはなれました。そうなると、子どものことのわかるのは、手紙のほかはありません。で、その手紙ですが、書いてみると、そんなにへたではなかったのですが、なにぶん字をわすれていて、かなのほかはあまり知った字がありません。
そこで、母の字引きというのがはじまりました。半紙を何枚かとじたものですが、まんなかに線が引いてあって、上下二段にわかれております。むかし、言海なんていう字引きがありましたが、それでもまねたのでしょうか。それに手あたりしだいに、筆で字をかき、かなをつけ、わけを書くというしくみであります。ふつうの字引きは五十音順にならんでおりますが、母の字引きは、そんな順序はありません。だから、これはおぼえ書きというようなものです。それでもわたくしたちはみんな「おかあさんの字引き」とよんでおりました。
鯛 たい。 これはさかなのたいです。
橋 はし。 わたるはしです。
箸 はし。 これはものをたべる、あのはしです。
こんな調子でありました。なかにはおもしろいのもあって、
恥 はじ。 これは、たびのはじはかきすてのあのはじのことです。
新聞 しんぶん。 まいにちくばってくるあのしんぶんです。よのなかのことがいろいろおもしろくかいてあります。
などというのもありました。わたくしなどはそのころもう中学を出ていましたから、こんな字引きなら手つだいのできないことはなかったのです。それでも母にきかれれば、書いたりおしえたりはしましたが、すすんで手つだいはせず、こんなところをよんでおもしろがるばかりでした。いまから思えば、すこしばかりもうしわけなく、すまない気持がいたします。
さきにも書いたように、母の字引きは手紙用のものでしたから、よむためでなく書くためにつくったわけであります。漢和字引きというのでなくて、和漢字引きというのであります。当用漢字というのは、千何百かあるそうですが、母の字引きには千もなかったように思われます。
昭和五年、母は七十二でなくなりましたが、そのまえ五、六年、学校へかよいました。もとより先生などではありません。しかもそれが小学校五年生くらいだったと思います。わたくしが東京から帰っていますと、家のうらで、
「おばあさん、坪田のおばあさん。」
という小学生の声をききました。母の同級生がさそいにきたわけです。母は、
「はあい、いま行きますよ。」
などと返事をして、大急ぎで、本のつつみとおべんとうをもって、小ばしりに出かけておりました。それからはじめて、その小学校の補習科も卒業しました。その補習科は高等女学校という名になっておりましたから、母は、
「わたしもこんど女学校を卒業してね。」
と、大じまんで、また大よろこびしておりました。かんがえてみると、ちょうど、わたくしのいまの年ごろです。六十五、六のときでしょうか。いまのわたくしにはとてもできそうに思えません。
轻松学日语,快乐背单词(免费在线日语单词学习)---点击进入
顶一下
(0)
0%
踩一下
(0)
0%