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日本むかしばなし集207

时间: 2020-01-30    进入日语论坛
核心提示:イタチのいる学校わたくしは六十八年もむかし、学校にあがりました。そのころの生徒は、みんな着物で、ぞうりをはいていました。
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イタチのいる学校

わたくしは六十八年もむかし、学校にあがりました。そのころの生徒は、みんな着物で、ぞうりをはいていました。先生はつめえり服で、山高帽にひげをはやしていました。
えらい先生ばかりでした。だから、先生が門からはいってこられると、生徒たちは、われさきにかけよって、げんかんまでずっとならんで、おじぎをしました。
時間を知らせるのは、あつい四角な板を、小使いさんが木のツチでたたきました。カーン、カーンと、それは遠くまできこえました。一キロもある、わたくしの村にもきこえました。
そのころ、学校にいくのには、村むらから一列にならんでいきました。いちばん年上の子どもが、組長になって、号令をかけました。わたくしたちの学校は、八つの小村のまんなかにありました。それでも、生徒は八十人しかありません。先生は四人でした。
年に二回、春と秋に、遠足がありました。ピクニックです。竹の皮に入れた大べんとうを、ふろしきで、せなかにくくりました。そして、木のてっぽうをかつぎました。てっぽうの形をしたぼうなんです。それでも、それをかつぐ上級生は、とても大いばりで、声をそろえて、軍歌をうたいました。たいてい、近くの城あとや、有名なお寺なんかに、へいたいのように、足なみそろえていきました。ラッパなんかもふいていったものです。
夏になると、よく村の川で泳ぎました。はば四、五メートルの川ですが、それでもカッパがいるといわれて、子どもたちは、おそれていました。ひとりで泳ぐことはありません。泳ぎじまいにはカッパにあいさつしました。
「ごんごのおんじまい、またきて泳ぐ。」
そういって、橋から川へドブンと、とびこみます。これがあいさつです。村のおかあさんがたは、そこの石橋のたもとにセンコウをたてて、朝ばん水神さまをおがみました。子どもが水難にあわないようにおがみました。
この川は小さくても、さかなが、ふしぎなほどたくさんいました。フナ、ハヤ、ナマズ、ウナギにコイ、タナゴにドジョウ、エビとカニとカメ。そんなのを、六月から十月にかけて、わたくしたちは、小さなあみをさげて、たんぼや小みぞの口で追いまわしました。
一度なんか、セキを切って、たんぼの水を落し、その落ち口にあみを受けて、わたくしは小ブナを二斗おけに一ぱいとったことがありました。また、流しバリというのをして、大ナマズを一度に五ひきも、とったことがありました。
しかし、なんといってもおもしろいのは、八月二十四日の夏祭りです。たいこをダンジリの上にのせて、ドンドンチンチンたたきながら、子ども総出で、村じゅう、それを引きまわるのです。それに、遠い近い親類がとまりがけで、みんな集まってきて、ごちそうを食べます。そのごちそうは、さかな屋さんが、大きなタイやヒラメやアナゴやハモなんか、なんびきも一度に投げこんでゆくほどのゴウセイさです。ざしきには、そんなさかなで作ったおすしが、ハンボウに一ぱい、やまもりになっていました。
お祭りにくる露店も、とてもおもしろかったのです。アメざいく、ゴム風船、それから花火やおうぎ、ピストルなどのおもちゃ屋。
そのなかに、水をはったおけの上を、水鳥を走らせているおばさんがありました。その水鳥、とてもかっぱつに泳ぎまわり、ときどき、水にもぐったりするのです。
おかあさんにおねだりして買ってもらいましたが、その水鳥の泳がせ方を書いた紙をよむと、ドジョウを糸で水鳥にくくりつけろと書いてありました。つまり、ドジョウに引かれて走ったりもぐったり、水鳥がしていたわけです。
お祭りの翌日、わたくしたちは学校のかえり道、お宮へ、つまらなそうな顔をして集まりました。みんなポケットから、きのう買った風船をだしました。みな空気がぬけて、しぼんでおります。
どうすることもできず、がっかりしていました。そこで、わたくしは、きのうの水鳥で思いつき、飛んできたヤンマをつかまえました。それに息でふくらませた風船をむすびつけてはなしたのです。ヤンマは空高く飛んで、みんなをよろこばせました。風船をもってるほかの連中も、つぎつぎそれをやりました。
学校へいく道に、大川というのがありました。その橋は、毎年、秋の川ぼしのときには、よそ村からきて、大あみを受けるところです。川ぼしというのは、川が一ばんで、ひあがる日なのです。
だから、そこのあみには、川上のさかなが、一ばんで、一ぴきのこらず、はいってしまいます。四斗だるになんばいも、ウナギ、ナマズ、コイ、フナなんかが、はいっていました。それを見て、わたくしは、その大あみをつくろうと、十回も二十回もつくりはじめたことがありました。しかし、十メートルもある大あみを、いつも十センチほどでやめるのでした。根気がつづかなかったのです。
学校は、たんぼのなかにありました。それで、えんの下に、イタチが巣をつくりました。
子がなんびきも生れました。親イタチがたんぼからエサを運んでいました。わたくしたちの教室の、いちばんうしろの席にいたのはカゲヤマくんです。カゲヤマは、つりばりにカエルをつけて、まどからぶらさげました。すると、それにイタチが食いつきました。
時間中、カゲヤマはイタチをつりあげ、教室のなかを走らせました。みんな大さわぎをしました。タケナミクラゾウの家には、馬をかっていました。おとうさんが病気したもので、その馬のせわをするのが、タケナミの仕事になりました。タケナミは学校へ馬をつれてきました。時間中は教室の近くにつないで、休みのときは外へつれてでて、道の草を食べさせました。おとなしい馬でしたから、みんなが、かわいがって、生徒たちが草を刈ってくるようになりました。そのうち、小牛をつれてくる生徒ができて、学校ではこまりました。
近くに、城山という山がありました。むかし、そこには、城があったのだそうですが、敵にせめられて、焼け落ちました。いまでもそのいただきには、焼けたお米のツブがあります。岩のあいだには、ぬけあながあって、ふもとのお寺へつづいていると、いわれていました。どこかに、金のカブトがうめられているとも、いいつたえられていました。わたくしは、よくその山にのぼって、焼け米のツブをひろったり、ぬけあなをのぞいてみたりしました。
わたくしたちは、学校を卒業するまえ、学校のうらに、クスノキのなえを植えました。二十人くらいですから、二十本を植えたわけです。その後、学校へいったことは、六十年のあいだに、二度や三度はありましたが、すっかり、そのクスノキのことはわすれていました。
二、三年まえ、学校で、むかしの同級生にあいました。イタチをつったカゲヤマです。それで、むかしの話をしました。すると、一本の大きなクスノキをさして、それがあのクスノキだと、いいました。クスノキも大きくなっていましたが、学校も大きくなっていました。生徒は、いま、千五百人で、先生は四十人だそうです。日本の人間も、それだけ多くなったのでしょう。
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