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「まさか」の人に起こる異常心理01

时间: 2020-01-31    进入日语论坛
核心提示:母、輝子の整理癖は病的だろうか 一九八四年(昭和五十九年)にあの世へ旅立った母の輝子は、無数のエピソードを残した人間だっ
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母、輝子の整理癖は病的だろうか

 一九八四年(昭和五十九年)にあの世へ旅立った母の輝子は、無数のエピソードを残した人間だった。
むだを極度に嫌った。二言目には「倹約、倹約」と言った。もっともその倹約は本人のみの感覚で、結果においてはけっして倹約ではなかった。
わが家は、敗戦の年の一九四五年五月二十五日の大空襲で、病院も自宅も全焼した。私は当時、陸軍病院勤務の軍医であったから、わが家の壊滅した状況は知らない。幸いに私がいた陸軍病院は被害がなく、敗戦後三カ月で私は復員した。軍服は将校の私物であるから、全部持ち帰った。
敗戦後しばらくして私はやっとボロ家を手に入れ、疎開先から母を呼び寄せた。罹災した自宅にあった衣服は全部焼けてしまったから、当時の世人がみなそうであったように、軍服や軍靴をはいて歩いていた。
ある日、寒いし、雨も降ってきたので、戦闘帽(軍隊では略帽といった)をかぶろうとしたら見つからない。母に尋ねると、あっさりとこう言った。
「手伝いに来た知り合いの植木屋のおじさんに、お礼にやっちゃったわよ」
母にとって平和な時代に戦闘帽などはむだな存在だった。しかし、私にとっては苦労をともにしたその戦闘帽は、過ぎし日の思い出の一つとして貴重な存在だったのだ。
母にとって不要な物はむだな物体であるから、整理してしまうことは母の性格からすれば当然のことだったのだ。整理癖は母の性格の中核を形成するものの一つである。
母の攻撃目標の一つが、家内の作る正月のおせち料理の量だった。
二軒のボロ家を経て、敗戦五年後にやっと東京・新宿の大京町に自宅とクリニックを再建したころの話だ。
私がかつて学んだ慶応大学病院のすぐ近くだったから、精神科教室のドクター連が病院の新年の祝賀会のあとにわが家に押しかけてくることが多かった。そのために家内は料理を多めに作っていた。それが母の目にはむだに映ったのだ。ある年、母はついにがまんができなくなったのか、家内にむだな量を減らすように厳命した。母の命令には抗しきれない家内は、泣く泣くその言に従った。
運の悪いときには悪いことが起こるものだ。悪い予感が現実のものとなった。果たせるかな、おおぜいの先輩、後輩の精神科医が押しかけてきた。さらに悪いことに、その中に母の親しかったお宅の令息がまじっていたからたまらない。母はそのドクターだけをわざわざ別室に招いて、なけなしのごちそうをふるまった。肝心の料理が、その他おおぜいのほうへ回らなくなった。
家内が身の縮む思いをしたことは言うまでもない。数十年を経た今でも、家内はその日の悲劇をときどき口の端にかけるくらいだ。
かく言う私も、母だけを責めるわけにはいかない。私は母の子であるから、母の性格の一部をちょうだいしているのは当然で、母ほど顕著ではないが、若干の整理癖も持っている。
書類や手紙類は必要のない限り、なるべく整理して捨てる性癖がある。全部とっておいたら、家じゅうがゴミくずだらけになってしまうだろう。しかし、ときに家内から「あのかたの手紙、とってある? 住所が知りたいの」などと聞かれて、「しまった」とほぞをかむことも少なくない。
よけいなことを書いてしまったが、母の整理癖ははたして病的な部類に入れていいのか迷う。病的な範疇に入れる定義はむずかしい。「本人も悩み、周囲の人にも悩みを与える」という定義もあるが、母自体は全く悩みもせず、もっぱら悩んだのは家内であり、ごく少数の家族が迷惑をこうむった程度であるから、母の場合はまず病的とは考えないほうがいいであろう。 
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