なかにし礼さんの著書『兄弟』(文藝春秋刊)が大きな評判になり、テレビ・ドラマにまでなった。作詞家、なかにし礼さんと亡兄との長い苦闘を主題とした自伝的小説のドラマ化だ。
兄嫁からの死の知らせに、弟は「兄さん、死んでくれてありがとう」とつぶやく。ドラマはこのシーンから始まる。兄の死によって兄と弟の長い闘争に終止符が打たれる。
弟の禮三は敗戦後、満州から母親、妹とともに北海道・小樽に引き揚げてきた。間もなく特攻隊帰りの長男が復員して一家に合流する。その兄は、にしん漁で一山当てるが、成功はその一回だけで、その後は数々の事業に手を出してはことごとく失敗する。そのために一家は青森から東京へと転居する。
兄と衝突した弟は家を出て、作詞家を志す。やがて芽が出て、世間に認められてきた弟に兄のたかりが始まる。しだいにふえる弟の収入もことごとく兄に吸いとられてしまう。 肉親の情に絡めて、兄は弟をおどし、泣きつき、ペテンにかけ、金をせびる。まともな仕事をしようとせず、バーやクラブで札びらを切る。怪しげな事業に手を出しては失敗し、スッテンテンになる。そのたびに兄は弟の前に姿を見せては、金をおどしとる。まさにダニのような存在で、弟にとっては毎日が地獄のような修羅場であった。兄は弟にとって寄生虫といっていい。弟が家を売り払っても、体調をくずして入院しても、兄は全くおかまいなく、弟に圧力をかけてくる。
礼さんの著書によると、兄は英語がペラペラ、ダンスは名人、アコーディオンはじょうず、ギターも弾ける、といった多彩な人間だった。頭もよく、商才にたけ、ときには不動産業で二億円もの金を手に入れたこともあったそうだが、ただそれを手堅くたいせつに運用するといった謙虚さに欠けていたのだ。
そして、兄の一生は、見栄坊の一生といってよかった。それは兄が小樽に復員したときの服装に集約される。かく言う私もそうであったように、日本じゅうの大部分の男が軍服か軍服まがいのボロ服を着ていた時代に、彼はりゅうとした背広姿で故郷の家族の前に姿をあらわし、家族のみならず、地元の人々をあっと言わせた。
兄が泣き落としをかける。「さっきの涙は演技だったのか」と弟は気づく。そういうことが何度も続く。弟は「今度こそ」と勇気をふるって兄との関係を絶とうとするが、そのたびに兄の弁舌と、あれやこれやの演技にその勇気がしぼんでしまう。
兄には地道に働くなどという考えは皆無だった。「開けゴマ!」とひと声叫んだら、昔の財産が燦然として立ちあらわれることを夢見て生きていた。兄のやっていることは仕事ではなく、宝さがしだった、と弟は書いている。
やがて弟は一流の作詞家と認められて収入もふえる。しかし、過労がたたって心臓をわずらい、しばしば救急車のやっかいになる。そんなある日、兄は日本音楽著作権協会から弟の印税を横領する。弟の知らぬ間に、兄が印税の振り込み口座を変更していたのだ。弟の苦悩はまだ続く。兄の手を出した会社が倒産したときも、口車に乗って債権者会議に引っぱり出されたあげく、弟は銀行預金を全部おろし、出版社から前借りをし、兄の負債の穴埋めまでさせられる。
兄は結局、一年の闘病生活の末に死んだ。兄の死後、弟はつてを求めて兄の戦友に会って兄のことを聞く。兄は「飛行練習中、赤トンボで墜落したが、九死に一生を得た」とよく語っていたが、それはうそで、墜落したのは仲間の別人だった。戦友は「仲間の墜落を見たら、だれだって明日はわが身と思いますよ。その恐怖心がつのっていき、いつの間にか自分の体験のように錯覚してしまったんですよ。その錯覚が事実よりも重い記憶になる」と言った。
『兄弟』という作品の兄のケースは、実にいろいろな問題をはらんでいる。
まず、このケースには狭義の精神病の症状は見られない。しかし、兄の性格からくるさまざまな行動は異常としか言いようがない。彼は自己の性格について十分な認識がある。しかし、常識的、正常な範囲内でコントロールすることができない。演技的な涙はあろうが、ときに自己嫌悪の涙も見せている。彼がやたらとけんかを吹っかけたり、虚飾に身を包んだり、真っ赤なベンツに乗ったりしたのは、心の奥底にひそんでいる劣等感の裏返しと考えられないこともない。
このように性格が極度に偏っているために周囲の人間が迷惑をこうむり、また本人もそのために苦しんでいる場合、「人格障害」という言葉を使う。人格障害は学者によっていろいろな分類がなされているが、この兄の場合、反社会性人格障害、演技性人格障害、自己愛性人格障害などの混合と考えられる。
あるいはドイツ精神医学界の長老であるK・シュナイダーのいう「病的性格」といってもいい。なお、シュナイダーは「社会が悩む」という表現を使っている。
兄嫁からの死の知らせに、弟は「兄さん、死んでくれてありがとう」とつぶやく。ドラマはこのシーンから始まる。兄の死によって兄と弟の長い闘争に終止符が打たれる。
弟の禮三は敗戦後、満州から母親、妹とともに北海道・小樽に引き揚げてきた。間もなく特攻隊帰りの長男が復員して一家に合流する。その兄は、にしん漁で一山当てるが、成功はその一回だけで、その後は数々の事業に手を出してはことごとく失敗する。そのために一家は青森から東京へと転居する。
兄と衝突した弟は家を出て、作詞家を志す。やがて芽が出て、世間に認められてきた弟に兄のたかりが始まる。しだいにふえる弟の収入もことごとく兄に吸いとられてしまう。 肉親の情に絡めて、兄は弟をおどし、泣きつき、ペテンにかけ、金をせびる。まともな仕事をしようとせず、バーやクラブで札びらを切る。怪しげな事業に手を出しては失敗し、スッテンテンになる。そのたびに兄は弟の前に姿を見せては、金をおどしとる。まさにダニのような存在で、弟にとっては毎日が地獄のような修羅場であった。兄は弟にとって寄生虫といっていい。弟が家を売り払っても、体調をくずして入院しても、兄は全くおかまいなく、弟に圧力をかけてくる。
礼さんの著書によると、兄は英語がペラペラ、ダンスは名人、アコーディオンはじょうず、ギターも弾ける、といった多彩な人間だった。頭もよく、商才にたけ、ときには不動産業で二億円もの金を手に入れたこともあったそうだが、ただそれを手堅くたいせつに運用するといった謙虚さに欠けていたのだ。
そして、兄の一生は、見栄坊の一生といってよかった。それは兄が小樽に復員したときの服装に集約される。かく言う私もそうであったように、日本じゅうの大部分の男が軍服か軍服まがいのボロ服を着ていた時代に、彼はりゅうとした背広姿で故郷の家族の前に姿をあらわし、家族のみならず、地元の人々をあっと言わせた。
兄が泣き落としをかける。「さっきの涙は演技だったのか」と弟は気づく。そういうことが何度も続く。弟は「今度こそ」と勇気をふるって兄との関係を絶とうとするが、そのたびに兄の弁舌と、あれやこれやの演技にその勇気がしぼんでしまう。
兄には地道に働くなどという考えは皆無だった。「開けゴマ!」とひと声叫んだら、昔の財産が燦然として立ちあらわれることを夢見て生きていた。兄のやっていることは仕事ではなく、宝さがしだった、と弟は書いている。
やがて弟は一流の作詞家と認められて収入もふえる。しかし、過労がたたって心臓をわずらい、しばしば救急車のやっかいになる。そんなある日、兄は日本音楽著作権協会から弟の印税を横領する。弟の知らぬ間に、兄が印税の振り込み口座を変更していたのだ。弟の苦悩はまだ続く。兄の手を出した会社が倒産したときも、口車に乗って債権者会議に引っぱり出されたあげく、弟は銀行預金を全部おろし、出版社から前借りをし、兄の負債の穴埋めまでさせられる。
兄は結局、一年の闘病生活の末に死んだ。兄の死後、弟はつてを求めて兄の戦友に会って兄のことを聞く。兄は「飛行練習中、赤トンボで墜落したが、九死に一生を得た」とよく語っていたが、それはうそで、墜落したのは仲間の別人だった。戦友は「仲間の墜落を見たら、だれだって明日はわが身と思いますよ。その恐怖心がつのっていき、いつの間にか自分の体験のように錯覚してしまったんですよ。その錯覚が事実よりも重い記憶になる」と言った。
『兄弟』という作品の兄のケースは、実にいろいろな問題をはらんでいる。
まず、このケースには狭義の精神病の症状は見られない。しかし、兄の性格からくるさまざまな行動は異常としか言いようがない。彼は自己の性格について十分な認識がある。しかし、常識的、正常な範囲内でコントロールすることができない。演技的な涙はあろうが、ときに自己嫌悪の涙も見せている。彼がやたらとけんかを吹っかけたり、虚飾に身を包んだり、真っ赤なベンツに乗ったりしたのは、心の奥底にひそんでいる劣等感の裏返しと考えられないこともない。
このように性格が極度に偏っているために周囲の人間が迷惑をこうむり、また本人もそのために苦しんでいる場合、「人格障害」という言葉を使う。人格障害は学者によっていろいろな分類がなされているが、この兄の場合、反社会性人格障害、演技性人格障害、自己愛性人格障害などの混合と考えられる。
あるいはドイツ精神医学界の長老であるK・シュナイダーのいう「病的性格」といってもいい。なお、シュナイダーは「社会が悩む」という表現を使っている。