病気が進行麻痺(パラリーゼ。つまり脳梅毒のことで、かつては麻痺性痴呆といった)であったと目されている天才たちには、ニーチェ、モーパッサン、シューマンなどがあげられる。しかし、二十世紀初頭に開発されたワッセルマン反応(梅毒の判定検査)が当時はまだなかったから、梅毒と確定するわけにはいかないが、臨床症状からそう考えられているのである。
ニーチェは四十四歳のとき、卒中様昏睡、興奮を起こして発病し、誇大観念から連想が支離滅裂になった。末期には「余は神である」などと大言壮語を並べた。彼のいわゆる「大いなる正午」体験は躁的誇大妄想によるもので、彼の神もそのように解釈できるだろう。
彼は五十五歳で卒中様発作で死んでいるから、発病以来十一年間生きたことになる。進行麻痺は文字どおりどんどん進行し、ほうっておけば数年以内に死ぬことが多いから、ニーチェは平均より長く生きたケースである。
私が医学生のころ、父の茂吉がいきなり「進行麻痺はふつう、何年くらいで死ぬのか」と私に聞いたことがある。私が「症状によってまちまちであるから、一概には言えません」と答えたら、茂吉は「現役がそんなことで、どうするのか」と怒った。そのとき茂吉は「ニーチェの病気」という文章を書いていたことをあとで知った。
ニーチェの進行麻痺説はメビウスやヤスパースも唱えているが、性格学のクレッチマーは、精神の崩壊を直前にしてロウソクの火の消える前のように、梅毒が一過性にニーチェの天才の能力を高めたのだ、という見方をしている。しかし、ニーチェの発病後の十一年は、治療法がなかったころとしてはいささか長すぎるきらいがないでもない。
この一時的な天才的創造力の高まりは、モーパッサンの晩年の作品『ル・オルラ』についても同じことが言えることであろう。それよりのちの作品『誰か知る』は、すでに進行麻痺的な内容を持つ作品といっていいようだ。
進行麻痺といえばわかりにくいが、前にも述べたとおり、簡単に言えば脳梅毒のことだ。梅毒は主として下半身から侵入するが、その梅毒スピロヘータが脳に侵入するまでには時間がかかる。なぜなら、脳の手前には異物を反撃する堅固な「要塞地帯」が存在し、梅毒のスピロヘータがいくら攻撃しても撃退されてしまう。それは、さながら日露戦争の乃木大将が率いる日本軍の二〇三高地への攻撃に似て、無数の死傷者を出したのと似ている。
しかし長い年月をかけて、強いスピロヘータがついに防御線を突破して脳への侵入に成功する。その間、十年から十五年もの年月を必要とする。したがって進行麻痺の発病年齢が四十歳以上に多く見られる理由が、そこにあるわけである。
脳に侵入したスピロヘータは人間の知能を支える大事な脳細胞を破壊する。その結果、優秀な知能の持ち主でも、しまいには幼稚園、小学生レベルまで低下する。しかし発病初期の段階では、うつ病的、あるいは躁症状が発生することもあって、うつ病、躁病とまちがわれることもある。また、ケイレン発作で発病することもあるので、テンカンという病気とまちがわれることもある。
だが、決定的な診断は血液、髄液(以前は脳脊髄液といった)のワッセルマン反応が陽性で、独特な化学反応を呈することでわかるのである。終局的には、知能低下、発音障害(日本人の場合は、パ・ピ・プ・ペ・ポと言わせると、パパ・ピピ・ププというふうに反復する)が起こり、かつ栄養が衰え、さながら末期ガンのように衰弱するのである。そして、この病気のある時期は脳の活動が一時的に活発になることがあり、それが、たとえばモーパッサンの『脂肪の塊』のような名作を生んだとも考えられる。
ご承知のように、この病気の原因は知られていなかった。本病で死亡した患者の脳から梅毒スピロヘータを発見したのは野口英世で、ワッセルマン反応の開発とともに、この病気の本態が梅毒であることが解明されたのである。すでに述べたように、多くの著名人がこの病気で命を失っている。
一九二四年(大正十三年)にウィーンで仕上げた父、茂吉の学位論文は、「麻痺性痴呆者の脳図(ヒルンカルテ)」であった。ウィーン大学のワグナー・ヤウレック教授が一九一七年に開発し、ノーベル医学賞を受賞したマラリア熱療法をかつてわれわれも盛んにやったものだが、梅毒による脳細胞の破壊をある程度くい止めることはできても、破壊された脳細胞は再生しないから、知能低下はそのまま残ることが多かった。
進行麻痺で有名な日本人は、東条英機首相のはげ頭をたたいた大川周明博士だった。その情景はニュース映画でもとらえられたし、近年、映画にもなった。
とにかく、東京裁判という公的な状況の中で、前にすわっていた東条さんの頭をたたいたので大騒ぎとなった。アメリカの軍医が診察したあと、東大の精神科の内村祐之教授に回され、検査の末に進行麻痺という診断が確定し、東大の付属病院ともいうべき、東京都立松沢病院に移され、そこでマラリア熱療法などの治療をした。ところが驚いたことに、不治といわれた進行麻痺が治ったのである。
その秘密はやはり、早期発見、早期治療ということができる。もし東条さんの頭をたたかなければ、大川さんはこの病気で死んだかもしれない。治ったという理由は、その後、大川さんはコーランの翻訳をしていることがあげられるからだ。
そして現在、進行麻痺はほとんど姿を消しているように見える。抗生物質のおかげといっていい。だが、梅毒そのものは依然として健在なのだから、いつ再び進行麻痺が勢いを盛り返すかわからない。一時忘れかけていた結核が再襲来している現状を見れば、そのおそれは十分にある。
進行麻痺という病気は二十世紀の初めにその本態が解明され、そして二十世紀の最後に一応姿を消しているところを見れば、二十世紀の病気といってもいいかもしれない。
ニーチェは四十四歳のとき、卒中様昏睡、興奮を起こして発病し、誇大観念から連想が支離滅裂になった。末期には「余は神である」などと大言壮語を並べた。彼のいわゆる「大いなる正午」体験は躁的誇大妄想によるもので、彼の神もそのように解釈できるだろう。
彼は五十五歳で卒中様発作で死んでいるから、発病以来十一年間生きたことになる。進行麻痺は文字どおりどんどん進行し、ほうっておけば数年以内に死ぬことが多いから、ニーチェは平均より長く生きたケースである。
私が医学生のころ、父の茂吉がいきなり「進行麻痺はふつう、何年くらいで死ぬのか」と私に聞いたことがある。私が「症状によってまちまちであるから、一概には言えません」と答えたら、茂吉は「現役がそんなことで、どうするのか」と怒った。そのとき茂吉は「ニーチェの病気」という文章を書いていたことをあとで知った。
ニーチェの進行麻痺説はメビウスやヤスパースも唱えているが、性格学のクレッチマーは、精神の崩壊を直前にしてロウソクの火の消える前のように、梅毒が一過性にニーチェの天才の能力を高めたのだ、という見方をしている。しかし、ニーチェの発病後の十一年は、治療法がなかったころとしてはいささか長すぎるきらいがないでもない。
この一時的な天才的創造力の高まりは、モーパッサンの晩年の作品『ル・オルラ』についても同じことが言えることであろう。それよりのちの作品『誰か知る』は、すでに進行麻痺的な内容を持つ作品といっていいようだ。
進行麻痺といえばわかりにくいが、前にも述べたとおり、簡単に言えば脳梅毒のことだ。梅毒は主として下半身から侵入するが、その梅毒スピロヘータが脳に侵入するまでには時間がかかる。なぜなら、脳の手前には異物を反撃する堅固な「要塞地帯」が存在し、梅毒のスピロヘータがいくら攻撃しても撃退されてしまう。それは、さながら日露戦争の乃木大将が率いる日本軍の二〇三高地への攻撃に似て、無数の死傷者を出したのと似ている。
しかし長い年月をかけて、強いスピロヘータがついに防御線を突破して脳への侵入に成功する。その間、十年から十五年もの年月を必要とする。したがって進行麻痺の発病年齢が四十歳以上に多く見られる理由が、そこにあるわけである。
脳に侵入したスピロヘータは人間の知能を支える大事な脳細胞を破壊する。その結果、優秀な知能の持ち主でも、しまいには幼稚園、小学生レベルまで低下する。しかし発病初期の段階では、うつ病的、あるいは躁症状が発生することもあって、うつ病、躁病とまちがわれることもある。また、ケイレン発作で発病することもあるので、テンカンという病気とまちがわれることもある。
だが、決定的な診断は血液、髄液(以前は脳脊髄液といった)のワッセルマン反応が陽性で、独特な化学反応を呈することでわかるのである。終局的には、知能低下、発音障害(日本人の場合は、パ・ピ・プ・ペ・ポと言わせると、パパ・ピピ・ププというふうに反復する)が起こり、かつ栄養が衰え、さながら末期ガンのように衰弱するのである。そして、この病気のある時期は脳の活動が一時的に活発になることがあり、それが、たとえばモーパッサンの『脂肪の塊』のような名作を生んだとも考えられる。
ご承知のように、この病気の原因は知られていなかった。本病で死亡した患者の脳から梅毒スピロヘータを発見したのは野口英世で、ワッセルマン反応の開発とともに、この病気の本態が梅毒であることが解明されたのである。すでに述べたように、多くの著名人がこの病気で命を失っている。
一九二四年(大正十三年)にウィーンで仕上げた父、茂吉の学位論文は、「麻痺性痴呆者の脳図(ヒルンカルテ)」であった。ウィーン大学のワグナー・ヤウレック教授が一九一七年に開発し、ノーベル医学賞を受賞したマラリア熱療法をかつてわれわれも盛んにやったものだが、梅毒による脳細胞の破壊をある程度くい止めることはできても、破壊された脳細胞は再生しないから、知能低下はそのまま残ることが多かった。
進行麻痺で有名な日本人は、東条英機首相のはげ頭をたたいた大川周明博士だった。その情景はニュース映画でもとらえられたし、近年、映画にもなった。
とにかく、東京裁判という公的な状況の中で、前にすわっていた東条さんの頭をたたいたので大騒ぎとなった。アメリカの軍医が診察したあと、東大の精神科の内村祐之教授に回され、検査の末に進行麻痺という診断が確定し、東大の付属病院ともいうべき、東京都立松沢病院に移され、そこでマラリア熱療法などの治療をした。ところが驚いたことに、不治といわれた進行麻痺が治ったのである。
その秘密はやはり、早期発見、早期治療ということができる。もし東条さんの頭をたたかなければ、大川さんはこの病気で死んだかもしれない。治ったという理由は、その後、大川さんはコーランの翻訳をしていることがあげられるからだ。
そして現在、進行麻痺はほとんど姿を消しているように見える。抗生物質のおかげといっていい。だが、梅毒そのものは依然として健在なのだから、いつ再び進行麻痺が勢いを盛り返すかわからない。一時忘れかけていた結核が再襲来している現状を見れば、そのおそれは十分にある。
進行麻痺という病気は二十世紀の初めにその本態が解明され、そして二十世紀の最後に一応姿を消しているところを見れば、二十世紀の病気といってもいいかもしれない。