どこの病院にも多かれ少なかれ、いわゆる「名物患者」という人がいるものである。
ある年輩以上のかたは、「葦原将軍」という名前を記憶しているであろう。その葦原将軍こそ、名物患者の最たるものだろう。
一農民だった葦原将軍は、茂吉が巣鴨病院に勤めたころ、すでに患者として入院していた。彼は金ピカの大礼服を着用し、謁見料と称して見学者から金をとったり、「お言葉」を与えることで有名であった。その金で、そのころ貴重品であった牛乳やリンゴを恵まれない他の患者に買い与えたりして、まさにボス的存在だった。
茂吉が巣鴨病院の副手であったころ、呉秀三教授の臨床講義の写真が残っているが、呉教授の横に長いあごひげを生やした葦原将軍が大礼服もいかめしく立っていて、学生たちの背後に白衣にハイカラーの茂吉の姿が写っている。
呉教授の後継者、三宅 一教授の『精神病学提要』は一九三一年(昭和六年)に発行されたが、その「妄想」の項に、葦原将軍が車輪のついた大砲の模型の前に胸を張って立っていて、「誇大妄想を有する患者にしてみずから葦原将軍と称し、自作の大砲にて敵軍を攻撃せんとする図」という説明がついている。彼は、このように精神医学教科書の総論の項にはのっているが、各論の項にはのっていない。
そのわけは、彼の受け持ちになった数多くの精神科医たちの診断がまちまちで、精神分裂病、パラノイア、パラフレニーと分裂病と同系統の妄想を主としたもの、躁病、分裂病と躁病の混合状態などと、ついに最後まで結論が出なかったからだ。今日に至っても、なお彼の診断は確定していないのである。
それは、あたかも夏目漱石の診断を思わせるものがある。漱石を初めて診断した呉秀三教授は、早発性痴呆(のちに精神分裂病と改称)の一病型である妄想性痴呆と診断したのであるが、その後、混合精神病説、非定型内因性精神病説、うつ病説など枚挙にいとまがない。天才の精神病は定型でないことが多いといわれるが、葦原将軍はたぐいまれな天才であったかもしれないのだ。
将軍は猫が好きで、生前は二匹の夫婦猫を飼っていた。将軍は参観者に「今般浜離宮に於て重要会議を開催す。汝臣らは朕が意を承認せよ。明治十二年 一月五日 葦原帝」などと書いた勅語を売りつけた。一枚金十銭也だった。その金で魚を買って猫に食べさせていた。
将軍は六畳の病室を一人で占領していた。床の間には勲章のいっぱいついた大礼服や竹製の軍刀、羽根のついた軍帽がかけられ、机上には勅語が数十枚重ねられていた。将軍は他人が部屋に入るのを嫌ったうえ、無精者なので部屋はよごれほうだいであった。
将軍最後の主治医は、私の叔父(母の弟)である斎藤西洋だった。西洋というおかしな名は祖父紀一が外遊中に生まれたからであった。西洋の弟が米国と名づけられたが、その理由はここに書くまでもない。
大陸に戦火が拡大し始めた一九三七年(昭和十二年)一月末、松沢病院にいた将軍は急に元気がなくなって、火鉢のそばにうずくまるようになった。西洋は将軍を寝かせ、足元に湯たんぽを入れさせた。翌日、西洋が「将軍、気分はいかがですか」と耳元で問うたが、将軍はただ唇を動かしただけだった。西洋は将軍の顔を写真に撮った。それから四日後の二月二日、将軍は眠るように死んだ。
前年の病院運動会の仮装行列に、副官を従えて悠然と馬車に乗り、数百人の観客の歓呼にこたえていた将軍の温顔はなく、ただ、しなびた葦原金次郎(将軍の本名)の顔があるだけだった。八十八歳だった。
葦原将軍は実に五十六年もの長い間、巣鴨病院、次いで一九一九年(大正八年)から現在の東京都立松沢病院で名物患者として君臨したのであった。盛大な病院葬が営まれ、世田谷区豪徳寺と埼玉県深谷市東源寺に分骨され、墓が建てられた。
西洋は将軍の脳の解剖所見を学会に発表したが、将軍の精神病を解くカギは何も見つからなかった。
一九年に病院が巣鴨から松沢へ移転したころの葦原将軍に扮した芝居を森繁久弥さんが演じたが、将軍の最後の言葉は「世の中は狂っとる」だった。これは森繁さん独自の台本にないアドリブだったかもしれない。
ある年輩以上のかたは、「葦原将軍」という名前を記憶しているであろう。その葦原将軍こそ、名物患者の最たるものだろう。
一農民だった葦原将軍は、茂吉が巣鴨病院に勤めたころ、すでに患者として入院していた。彼は金ピカの大礼服を着用し、謁見料と称して見学者から金をとったり、「お言葉」を与えることで有名であった。その金で、そのころ貴重品であった牛乳やリンゴを恵まれない他の患者に買い与えたりして、まさにボス的存在だった。
茂吉が巣鴨病院の副手であったころ、呉秀三教授の臨床講義の写真が残っているが、呉教授の横に長いあごひげを生やした葦原将軍が大礼服もいかめしく立っていて、学生たちの背後に白衣にハイカラーの茂吉の姿が写っている。
呉教授の後継者、三宅 一教授の『精神病学提要』は一九三一年(昭和六年)に発行されたが、その「妄想」の項に、葦原将軍が車輪のついた大砲の模型の前に胸を張って立っていて、「誇大妄想を有する患者にしてみずから葦原将軍と称し、自作の大砲にて敵軍を攻撃せんとする図」という説明がついている。彼は、このように精神医学教科書の総論の項にはのっているが、各論の項にはのっていない。
そのわけは、彼の受け持ちになった数多くの精神科医たちの診断がまちまちで、精神分裂病、パラノイア、パラフレニーと分裂病と同系統の妄想を主としたもの、躁病、分裂病と躁病の混合状態などと、ついに最後まで結論が出なかったからだ。今日に至っても、なお彼の診断は確定していないのである。
それは、あたかも夏目漱石の診断を思わせるものがある。漱石を初めて診断した呉秀三教授は、早発性痴呆(のちに精神分裂病と改称)の一病型である妄想性痴呆と診断したのであるが、その後、混合精神病説、非定型内因性精神病説、うつ病説など枚挙にいとまがない。天才の精神病は定型でないことが多いといわれるが、葦原将軍はたぐいまれな天才であったかもしれないのだ。
将軍は猫が好きで、生前は二匹の夫婦猫を飼っていた。将軍は参観者に「今般浜離宮に於て重要会議を開催す。汝臣らは朕が意を承認せよ。明治十二年 一月五日 葦原帝」などと書いた勅語を売りつけた。一枚金十銭也だった。その金で魚を買って猫に食べさせていた。
将軍は六畳の病室を一人で占領していた。床の間には勲章のいっぱいついた大礼服や竹製の軍刀、羽根のついた軍帽がかけられ、机上には勅語が数十枚重ねられていた。将軍は他人が部屋に入るのを嫌ったうえ、無精者なので部屋はよごれほうだいであった。
将軍最後の主治医は、私の叔父(母の弟)である斎藤西洋だった。西洋というおかしな名は祖父紀一が外遊中に生まれたからであった。西洋の弟が米国と名づけられたが、その理由はここに書くまでもない。
大陸に戦火が拡大し始めた一九三七年(昭和十二年)一月末、松沢病院にいた将軍は急に元気がなくなって、火鉢のそばにうずくまるようになった。西洋は将軍を寝かせ、足元に湯たんぽを入れさせた。翌日、西洋が「将軍、気分はいかがですか」と耳元で問うたが、将軍はただ唇を動かしただけだった。西洋は将軍の顔を写真に撮った。それから四日後の二月二日、将軍は眠るように死んだ。
前年の病院運動会の仮装行列に、副官を従えて悠然と馬車に乗り、数百人の観客の歓呼にこたえていた将軍の温顔はなく、ただ、しなびた葦原金次郎(将軍の本名)の顔があるだけだった。八十八歳だった。
葦原将軍は実に五十六年もの長い間、巣鴨病院、次いで一九一九年(大正八年)から現在の東京都立松沢病院で名物患者として君臨したのであった。盛大な病院葬が営まれ、世田谷区豪徳寺と埼玉県深谷市東源寺に分骨され、墓が建てられた。
西洋は将軍の脳の解剖所見を学会に発表したが、将軍の精神病を解くカギは何も見つからなかった。
一九年に病院が巣鴨から松沢へ移転したころの葦原将軍に扮した芝居を森繁久弥さんが演じたが、将軍の最後の言葉は「世の中は狂っとる」だった。これは森繁さん独自の台本にないアドリブだったかもしれない。