恋がたきを射殺した早発性痴呆の
天才と精神病といえば、長崎医専精神科の石田昇教授をあげねばならぬ。
石田教授の米国留学中のいわば留守番役というわけで、茂吉がほぼ二年間の約束で長崎医専に派遣されたが、その二年間が倍にも延びたのは次のような事情があったのだ。
石田昇教授は茂吉より三年早く東大を出た先輩で、若くして多彩な才能を示す(入局三年目に早くも『新撰精神病学』という教科書を出版している)一方、雄島浜太郎というペンネームで小説も書いた文学青年で、感受性の鋭い、かつ繊細な神経の持ち主だった。アメリカ留学中に石田教授が発表した早発性痴呆の治療法は、米国各地の大学で実験された。きわめて評判がよく、そのため米国精神医学会の名誉会員に推薦されるなど、氏の前途は洋々たるものがあった。
だが、ひそやかに不幸が忍び寄っていた。留学先のボルチモアのジョンス・ホプキンス大学精神科でスイス生まれの有名なアドルフ・マイヤー教授に師事していたが、氏がその治療に情熱を注いだ早発性痴呆(今の精神分裂病)に皮肉にもおかされることになったのだ。彼がのちに収容され、一生を送った松沢病院のカルテによると、留学先で、妄想性曲解や被害的幻聴が発生し、一週間おきに何度も下宿をかえたりしている。
見学に行った病院の婦長が自分に恋愛感情をいだいていると思った。しかし、その病院にウォルフというドイツ系の医師がいて、やはり婦長に思いを寄せ、特に自分を敵視して敵対行動をとっていると考えた。おまけに時が第一次大戦後で、ドイツ系米人は敵国の日系人を憎悪していた時代だった。石田はついに短銃で恋がたきを射殺してしまった。
その結果、一九一六年(大正五年)から二五年に至る十年間、ボルチモアの刑務所に収容された。責任能力のない病者が有罪になったのはおかしいが、アドルフ・マイヤー教授が正しく病気を鑑定したのに、ウォルフ医師がいた病院の院長が石田を正常とした判定を裁判所が採り上げてしまったのだという。
その後、日本の精神医学会が熱心に米国側に運動し、病気が治れば再び米国で刑期を続けるという条件で、二五年に送還され、松沢病院に入院した。しかし病はついに治らず、四〇年に六十五歳で亡くなっている。発病以来、実に二十五年の歳月がたっていた。
茂吉は、二九年十一月十四日に松沢病院に石田昇を見舞っている。
石田教授の米国留学中のいわば留守番役というわけで、茂吉がほぼ二年間の約束で長崎医専に派遣されたが、その二年間が倍にも延びたのは次のような事情があったのだ。
石田昇教授は茂吉より三年早く東大を出た先輩で、若くして多彩な才能を示す(入局三年目に早くも『新撰精神病学』という教科書を出版している)一方、雄島浜太郎というペンネームで小説も書いた文学青年で、感受性の鋭い、かつ繊細な神経の持ち主だった。アメリカ留学中に石田教授が発表した早発性痴呆の治療法は、米国各地の大学で実験された。きわめて評判がよく、そのため米国精神医学会の名誉会員に推薦されるなど、氏の前途は洋々たるものがあった。
だが、ひそやかに不幸が忍び寄っていた。留学先のボルチモアのジョンス・ホプキンス大学精神科でスイス生まれの有名なアドルフ・マイヤー教授に師事していたが、氏がその治療に情熱を注いだ早発性痴呆(今の精神分裂病)に皮肉にもおかされることになったのだ。彼がのちに収容され、一生を送った松沢病院のカルテによると、留学先で、妄想性曲解や被害的幻聴が発生し、一週間おきに何度も下宿をかえたりしている。
見学に行った病院の婦長が自分に恋愛感情をいだいていると思った。しかし、その病院にウォルフというドイツ系の医師がいて、やはり婦長に思いを寄せ、特に自分を敵視して敵対行動をとっていると考えた。おまけに時が第一次大戦後で、ドイツ系米人は敵国の日系人を憎悪していた時代だった。石田はついに短銃で恋がたきを射殺してしまった。
その結果、一九一六年(大正五年)から二五年に至る十年間、ボルチモアの刑務所に収容された。責任能力のない病者が有罪になったのはおかしいが、アドルフ・マイヤー教授が正しく病気を鑑定したのに、ウォルフ医師がいた病院の院長が石田を正常とした判定を裁判所が採り上げてしまったのだという。
その後、日本の精神医学会が熱心に米国側に運動し、病気が治れば再び米国で刑期を続けるという条件で、二五年に送還され、松沢病院に入院した。しかし病はついに治らず、四〇年に六十五歳で亡くなっている。発病以来、実に二十五年の歳月がたっていた。
茂吉は、二九年十一月十四日に松沢病院に石田昇を見舞っている。