正確には、
「魚 心あれば 水 心あり」
と言うんだそうだ。ホントかね?
そういえば、
「月落烏啼霜満天(月落ち 烏啼《からすな》いて 霜天に満つ)」
という拓本を、
「月 烏啼《うてい》に落ち 霜 天に満つ」
と読んだ奴がいたっけ。烏啼をカラスが鳴くのではなくて「あれは、烏啼という山の名だ」と言い張ったのである。
ところで、中国は江南の寒山寺を訪れたとき、中国人の通訳に、
「来てみれば何ほどもなし寒山寺」
と言われたのには、ビックリした。なぜか伊藤博文が寄付した寒山寺の鐘は日本人観光客好みで、中国人通訳も気持ちよさそうに、その由来を説明してくれる。
それこそ、
「相手が好意をもってくれれば、こっちも好意をもって応じることができる」
といった風情だ。これが、ついでのことに、
「こちらが好意をもっていれば、相手もまた好意をもってくれるものである」
というふうに解釈できたら、どんなにいいことか。
たとえば、女の子に対して。
たとえば、先生に対して。
なに、水清ければ魚住まず?