人間には、
「分相応」
というものがある。わたしがいくら逆立ちしたって——と、ここまで書きかけ、ハタと困った。トーゼンのことながら、この文章は、
「誰某《だれそれ》のようにはなれない」
とつづくのであるが、この誰某を誰にしたらいいか、悩んでいるのである。他愛もない人物を挙げた日には、わたし自身が可哀そうだ。
「鵜のまねをする烏」
ということわざは、自分の能力や身の程を顧みず、他人のマネをして失敗する者のたとえである。正確には「鵜のまねをする烏は水を呑む」というらしい。
前にも紹介した金子武雄さんは「善意に解すれば忠告であり、悪意に解すれば嘲笑である」とおっしゃっている。すなわち——
〈そんなこと,およしなさいよ。鵜のまねをする烏ですよ。
これは忠告である。この忠告が容れられるかどうかはわからないが、ことわざは相手の胸にただならず響くに違いない。
やっぱりしくじったか。自分の能力を考えてないのだからね。鵜のまねをする烏なんとやらさ。
これは嘲笑である。当人にとっては無念ながら是非もなかろう〉
一つの言葉が忠告にも、嘲笑にもなる。そこが、ことわざの面白いところだ。