妻に死なれると、炊事、洗濯、掃除など、日常生活の面で、ずいぶん妻にオンブしていたことを思い知らされる。炊事は店屋もので済ませ、洗濯はクリーニング屋に任せ、掃除は掃除機を使っているのだが、どこか冴えない。掃除ひとつにしたって、妻はどこかで手を抜いているんだろう——と思う。さもなかったら、あんなふうに昼寝をする時間があるはずもない。
可哀そうに、夫のほうは手の抜き方を知らないから、ついマジメにやって、たちまち疲れ果ててしまう。自然に部屋の掃除も投げやりになる。男やもめにウジがわく所以《ゆえん》だ。
その点、夫に死なれた妻は、手抜きの仕方を知っているうえに、いままで夫のメンドウをみていたぶんラクになるのである。かりに外で働くようになっても、生き生きしている。
夫の存命中、ヨソの男に目を向ければ、それは不倫だったが、いまはヨソの男に目を向けても、これは晴れて恋愛だ。女やもめに花が咲く所以だろう。
性については、男やもめは、とくに辛い。男やもめが女のひとの目をじっとみて「好きだよ」と言ったところでソッポを向かれるのがオチだが、女やもめが男の目をじっと見て「好きよ」とでも言ってみろ! だいたいモノにすることができるはずである。
——男は、男やもめになりたくなくて結婚する。女は女やもめになりたくて結婚する。