誰が言い出したのかは知らないが、
親を見りゃボクの将来知れたもの
という川柳だか戯《ざ》れ句だかが嫌いである。ここにはコマッシャクレた反抗心があるだけで、なんの向上心もない。
いまさらサクセス・ストーリーをもちだすまでもないだろうけれど、功成り名を遂げた人の親は、みんな貧しかった。そういう人たちが親の暮らしぶりをみて、
「オレの将来は知れたものだ」
と嘆いていたか、どうか?
親の暮らしぶりが、ヒドかったら、そこから抜け出そうとするのがアタリマエの感覚だろう。この句には、大向こうのウケばかり狙ったようなところがあって、そのアタリマエの感覚を大事にする気持ちがない。
かりに、こういう句をホントに子供が作った場合でも、ヘンにもてはやしたりしないことだ。もてはやされれば、子供は、つい調子にのる。
「蛙の頬冠り」
ということわざは、蛙が頬冠りをすると、目がかくれて前方が見えないことから、向こうが見えないこと、目先のきかないことのたとえである。コマッシャクレたことを言う子供たちを大人がヘタにおだてるのは、蛙に頬冠りをさせるようなものではないか。
ちかごろの大人たちは、子供に媚《こ》びすぎている。それは、一種の責任逃れだろう。