親父の商売は、金物屋だった。おかげで、こんな固い人間ができてしまったのかも知れぬ。
金物屋の倅《せがれ》のくせに、
「カネだけが人生じゃない」
と思っている。われながら、うすらトンカチみたいな奴である。
「金は天下の回りもの」
ということわざは、
「カネは、次から次へと人手に渡っていくものである」
といった意味だろう。カネは、流通してこそ価値があり、一人のところに死蔵されていたんでは、何の価値もない。
本来は、そういう意味なのに、いつのまにか、このことわざは、
「金銭は一人だけの専有物ではない。人手から人手へ次々に回りもちする共有物である」
という意味に変わり、これがまた、
「金銭は一ヵ所にばかりとどまっているものではないから、いつかは自分のところにも回ってくるにちがいない」
というふうに変わっていく。おカネにかんして、わたしたちは、どこか楽天的だ。
その代表が、
「江戸っ子は宵越しの銭は持たねぇ」
といったセリフだろう。これ、ホントのところは、
「江戸っ子は宵越しの銭は持てねぇ[#「持てねぇ」に傍点]」
というべきではなかったか?