※[#歌記号、unicode303d]女房にゃ言えない 仏ができて
秋の彼岸の まわり道
という都々逸《どどいつ》があるそうな。わたくし、無学にして、こいつを、
※[#歌記号、unicode303d]女房にゃ言えない 仏のために
と覚えていた。
「女房にゃ言えない仏ができて」というのと「女房にゃ言えない仏のために」というのとでは、まるっきり趣がちがう。後者は歴然たる既成の事実だけれど、前者はそうはいかない。仏も、できたてのホヤホヤで、墓に参るにしても、まだ内心|忸怩《じくじ》たるものがある。
それに、こいつはどうしたって秋の彼岸でなければならぬ。これが、かりに春の彼岸だったら、いささか燥《はしや》ぎすぎではあるまいか。
さて、女房に言えない仏ができて、秋の彼岸にまわり道をしてきた。そこで、うまく女房をだましたつもりでいると、トンデモナイ。女房は、先刻承知なのである。
「それならなぜ追及しないか」というと「どうせ仏さまでしょ?」と、女房は答えるだろう。生き仏ならイザ知らず、いまさら死んだ女にヤキモチを焼いたところではじまるまい。追及すれば、いやでも知ることになる。そのときの心境は、
「聞くは気の毒 見るは目の毒」
といったところか。それならば、いっそ知らんぷりをして、じんわり亭主をいじめたほうがいい?