「目は人間の眼《まなこ》なり」
と言われて「そんなの、アタリマエじゃないか」と思った。根が単純なもんだから「目が人間の眼じゃなくって鼻だったりしたら、それこそ目も当てらンない」なんて息巻いた。
しかし、目と眼を比べて考えれば、眼は目の中心で、
「目は人間の眼なり」
という言葉には、
「目はその人の人柄を最もよくあらわす所だ」
といった意味もあるのですね。目が濁っている人は、やはり、心も濁っているように思われる。
されば、
「気は心」
という言葉も、気と心を比べて考えてみれば、心は気の中心で、
「気は心のあらわれ」
というふうにみることができる。気のいい人は、やはり、心がやさしいのである。
そこで、
「たとえ僅《わず》かでも気のすむようにすれば、心も落ちつく」
といった意味も出てくるのであろう。町内会のお祭りの寄付かなんか集めにくる人が、
「気は心ですから……」
と言うのは、そんなときである。でも、そういう場合は、お隣がいくら出したか気になって、ホント、気が気じゃない。