「四十而不惑」
といったのは、あの孔子だ。とてもじゃないが、人生八十年時代には流行《はや》りそうもない。
もじって、
「四十而初惑」
と言った人がいる。いまは亡き小説家の吉川英治さんである。
考えてみれば、二十歳や三十歳で惑ったのは、あれは、児戯に等しかった。わたしたちの、ほんとうの惑いがはじまるのは、四十歳になってからである。
わたしなんぞは、二十歳にして初めて惑い、三十歳を過ぎて二十年以上たった現在も、いまだに惑いっぱなしだ。四十歳にして初めて惑うどころか、
「五十歳過ぎても惑いっぱなし」
といった感じである。
しかし、孔子が、
「三十而立、四十而不惑」
と言ったのは、あくまでも男の人生である。女のひとが�立つ�わけも�惑う�わけもない。
ちかごろの女優さんは、四十歳にして初めて脱いだりしている。もっとも、
「必然性があれば……」
という条件つきだが、なにが必然性なのかは、わしゃ知らぬ。
そこで、小説家の戸板康二さんが言うには、
「(女は)四十にしてマドモアゼル」