「死ぬ死ぬと言う者に死んだ験しがない」
という。ホントに死んでしまえば「死ぬ死ぬ」と言うこともできなくなる道理だ。
「死んで花実が咲くものか」
ということわざは、みずから死を選ぼうとしている者に、
「ここで、いっぺん死んだつもりになって、いっしょうけんめい働いてみてはどうか?」
と諭すときに使われる。それこそ死にもの狂いに生きれば、道は自然に開かれよう。
この場合「枯れ木には花も咲かず実もならないように」とつけ加えるのは、どんなものか。枯れ木のなかには、春がくれば、また芽ぐむものもあるだろう。
「死んだ子は賢い」
「死んだ子に阿呆はない」
「死んだ子の年を数える」
といって、死んだ子を懐かしむあまり、若くして死んだ者を美化するひとがいるが、わたしは反対だ。小説家の山川方夫が若くして死んだとき、数少ない女友達の一人である小泉喜美子さんが泣きながら「いい人は、早く死ぬのよ」と電話をかけてきたが、その小泉さんも死んでしまった。
「死ぬ者貧乏」
ということわざもある。生きていれば、どんないい[#「いい」に傍点]目に遭うことができたかもしれないのに、死んでしまってはそれも叶わない。死んだ者がいちばん損なのである。