一人が、
※[#歌記号、unicode303d]なったァ なったァ じゃ[#「じゃ」に傍点]になったァ
と囃《はや》し、一人が、
※[#歌記号、unicode303d]なーにじゃ[#「じゃ」に傍点]になられたァ
と問いかける。そうして、
※[#歌記号、unicode303d]長者になられたァ
と答えるところを、
※[#歌記号、unicode303d]大蛇になられたァ
と答えてしまうのも落語なればこそだろう。
もういちどやり直して、こんどは、
※[#歌記号、unicode303d]亡者になられたァ
「蛇の道はへび」
ということわざは、もとは「蛇の道はへびが知る」で、へびの通った道は、われわれ人間にはわからないが、へび同士にはわかっているらしいところから、
「仲間のことは、他人が口出しするまでもなく、仲間の者がよく知っている」
といった意味である。転じて「その道のことは、その道のものがいちばん知っている」という意味にもなる。
「餅は餅屋」
ということわざにも通じるが、それに比べて、なんとなくイメージが暗いのは、へびのせいだろうか。へびにはへびの人生、いや、蛇生があるはずである。それを傍らから眺めて、暗いだの、妖《あや》しいだのと言うのは、いかにも厳しい。
蛇の道はヘビイだ。