いつも不思議に思うのは、目薬をさすとき、なぜか一緒に口をあける人がいることである。目薬が口に入ってしまわないかと、こっちは、よけいな心配をしている。
ことほど左様に、目薬をさすのは、自分でもむずかしく、もどかしいものだ。まして、二階から階下にいる人間に目薬をさすとなると、大変である。
「二階から目薬」
ということわざは、だから、できないこと、しても無駄なことのたとえだ。あるいは、迂遠で効果のないこと、または不適切なやり方のたとえでもある。
目薬で思い出すのは、例の落語だ。効能書きに「めじりにさす」とあるのを「女の尻にさす」と読み、わざわざ女房に尻を出させ、女房の尻に目薬をさす。あまりのこそばゆさに、思わず女房が一発放つと、目薬はみごとに亭主の目に入る……。
「隔靴掻痒」
という言葉も、これに近い意味だろうか? 靴を隔てて痒《かゆ》いところを掻《か》くのは、いかにももどかしく、じれったい。まして、水虫かナンかにかかっていれば、なおさらだろう。
「香港に、あの手塚治虫の海賊版が出まわっている」
というので、かの地の書店で「手塚治虫の本」と書いてみせたら「水虫が治る本」を持ってきたのにはビックリした。