「逃がした魚は大きい」
ということわざを聞くたびに、虫のオケラを思い浮かべる。子供のころ、わたしたちはオケラをつかまえては、
※[#歌記号、unicode303d]おまえのキンタマ どーんくらい?
と歌ったものだ。
すると、オケラのやつ、マジメな顔をして、前肢を一杯にひろげてみせる。それが、
「こーんくらい」
と答えているようで、ヘンにおかしかった。
このことわざは、
「釣り落とした魚は大きい」
とも言う。釣り上げた魚よりは、釣りそこなった魚のほうが大きく感じられる。
男と女のことだって、そうである。得た恋よりは、失った恋のほうが甘美に感じられる。得た恋はほとんどなくて、失った恋ばかりだから、なおさらそう感じられるのだろうか。
——女房とは、職場結婚である。なんだか釣り堀で釣ったみたいで、アホらしい。
女房にしてみれば、
「釣ったのは、あたしよ」
と考えているかもわからない。そうして、釣り落とした魚に思いを馳《は》せていたりして……。
「釣った魚にエサをやるバカはいない」
といった言い方もある。そういえば、結婚したとたんに、うちのカミさんは、わたしにロクなものを食わしてくれないようになったなあ!