「女というものは、美人になるってえと、何もかも美人ですな。笑った顔がよくって、怒った顔がよくって、泣いた顔がまたいい。エ、美人が泣いたのは、海棠が雨に打たれてしおれたよう……と申します」
という。落語『姫かたり』のマクラである。
「美人というも皮一重」
ということわざは、
「容貌の美醜は、顔の皮一枚によってきまるだけのことだ」
という意味だとばかり思っていた。だから、人間として美しいかどうかは、深くその人の内面にかかわっている——と。が、いまは亡き金子武雄さんの解釈はちがう。金子さんは『日本のことわざ』のなかで、
「美人というものも、からだを包んでいる皮膚一重が美しいということにかかっている、という意である。言いかえると、美人であるか不美人であるかの違いは、肌が美しいか美しくないかということによるのだ、ということになる」
と書いたうえで、わたしのようなヤワな解釈に対しては「たぶん不美人か、あるいは美人をつかまえそこなった男の、負け惜しみのつぶやきのことばであろう」と言っている。
いやあ、恐れ入りました。言っちゃナンだが、わたくし、明治生まれの、たぶん美人をつかまえた日本男児の気概をここにみたような感じである。