女房がホメられるたびに、
「女房がいいのは、亭主がいいからだ」
と言いつのってきた。ホント、そうとでも思わなきゃ、バカらしくって、夫婦ナンテやってらンない。
それと同じことで、女房が粗末なのは、亭主が粗末だからだろう。そして、そういうことなら、うっかり女房のことも悪く言えない道理である。
「割れ鍋に綴じ蓋」
ということわざには、
㈰粗末な人間には粗末な人間が適《ふさ》わしい。
㈪どんな粗末な人間にも、それに適わしい人間がいるものだ。
といった二通りの意味がある。似た者同士の夫婦の機微を強調したものだが、どっちにしたって「だから、うまくやっていけ」というニュアンスがこめられているところが嬉しい。
漫画家の畑田国男さんも、
「われ鍋は汁をこぼし、とじ蓋は蒸気を吹きだす。そんな夫婦の方が長続きするものらしい」
と言っている。どうやら、おたがいに欠点があったほうが、埋め合わせが利くようだ。
「割れ鍋に綴じ蓋」
ということわざから「手鍋さげても」という言葉を連想するのは、このわたしだけだろうか? 昔は「手鍋さげても」といった気持ちがあったから、綴じ蓋でもよかったような気がするが……。