ちかごろ「先妻」という言葉が使われなくなって「前妻」と言う人が増えてきた。なんだかオードブルみたいで、へんな感じである。
いつのまにか「中華料理」も「中国料理」と言うようになっている。いまに「中華思想」も「中国思想」と言うようになるのだろうか。
街の「美容院」の看板も、あらかたは「美容室」に改められている。女のひとに、お世辞のつもりで「美容院へ行ってきたのか?」と言おうものなら「いいえ、美容室よ」と言い直される始末だ。
だいたいが、女のひとを「女性」と言うようになったのも、つい最近のことである。昔は、女のひとのことは「婦人」と言ったものだ。
たとえば「国防婦人会」というように、なんとなく戦争中の匂いがするから「婦人」は嫌われたのだろうか。いまでも「婦人服」や雑誌の『婦人倶楽部』はともかく「婦人警官」「婦人自衛官」など、官製のものは「婦人」と呼ばれることが多い。
民間のほうは「女性」だ。早い話が「婦人雑誌」だって「女性誌」だし、NHKの朝のテレビ小説『はね駒《こんま》』の女主人公りんは「婦人記者」だけれど、彼女の後輩たちは「女性記者」である。
そこで「国際婦人年」とやらも、そういえば官製というか、政府主導型だったなあ——と、いまにして思うのである。PTAや地域の「婦人学級」には、もちろん、官の息がかかっている。
いつだったか、江田島の旧海軍兵学校で見せてもらった少年兵・十八歳の遺書に、
「借金なし、係累なし、婦人関係なし」
とあったのが、いまだに忘れられない。かの少年兵が言う「婦人関係」とは、いまの言葉で言う「女性関係」のことだろう。
「返さなければならない借金も、面倒をみなければならない家族も、結婚しなければならない女性もいない。だから、後顧の憂いなく、お国のために死ねる」
といった意味だ。言っちゃナンだが、十八歳という若い身空で〈女性関係なし〉と言いきるところが、なんとも哀れである。
戦争に敗けて、四十一年——。
その悲惨を語り継ぐことのむずかしさが問題になっている。戦争が終わった一九四五年(昭和二十年)から、逆に四十一年を数えれば、一九〇四年(明治三十七年)である。
子供のころ、日露戦争の話は、ずいぶん遠い日の出来事のように聞いた。わたしたちだって、そうだったのである。いまの子供たちが、太平洋戦争のことをずいぶん遠い日の出来事のように聞くのも、けっして無理なことではない。