不思議な言葉を耳にした。あるテレビのワイド番組で、司会者が若いタレントの母親のことを、
「きょうだいみたいに仲のよいお母さんです」
と言ったのである。
当節、テレビの司会者やアナウンサーの言葉遣いについて、
「ああでもない、こうでもない」
と、いちいち目くじら立てていたらキリがないし、こっちだってマトモな日本語を喋っているかどうか自信もないので、言葉遣いそのものにイチャモンをつけるつもりは更々ない。しかし、
「きょうだいみたいに仲のよい」
という形容を聞いて、このわたしが、
「ハテナ?」
と首をかしげたのは、形容された相手が他人じゃなくて、実の母親だったからだ。流行歌にも「親の血を引くきょうだいよりも」という文句があるけれど、かりに、きょうだいの仲がよかったら、それは、同じ親の血を引いているからだろう。
いや、スレッカラシのわたしにしてみれば、
「たとえ同じ親の血を引いているからって、きょうだいの仲がいいとは限らない。ときには血を血で洗うようなこともある」
と言いたいところだが、ここは、まあ、そんな理屈は後まわしにしよう。わたしにとって怪訝《けげん》でならなかったのは、この司会者が親ときょうだいの仲のよさを秤《はかり》にかけて、なんのためらいもなくきょうだいのほうに軍配を上げていたことだ。
まさか一司会者の発言が世相を反映しているとは思わないけれど、その場に居合わせた誰もが一様にうなずいているサマをみて、わたしは、
「ちかごろの親は、きょうだいよりも軽くみられているのかなあ」
と考え込んじゃったのである。あるいは、親そのものが、きょうだいのようにみられたがっているのだろうか……。
もし、例の司会者がそんな風潮を暗に皮肉って、
「きょうだいみたいに仲のよい」
と言ったんなら、それはそれで面白いのだが、失礼ながら、彼、とてもそんなふうには見えなかった。彼は彼で、あれでもけっこう気の利いたセリフのつもりで喋っていたにちがいない。
それにしても、このごろ、もうひとつ気になってならないのは、
「子育ても終わったので……」
という表現だ。わたくし、テレビなどで利いたふうな女性たちが「わたくし、子育ても終わったので……」と言うのを聞くたびに、
「そうですか? 子育てというのは、あれは、終わるものなのですか?」
と問いかけたい衝動にかられて、困っている。