ちかごろ、また老眼が進んだように思えてならぬ。新聞や週刊誌を読むのに、モノを読むときの眼鏡を外し、舐めるようにして読む始末だ。
だいたいが、近視である。近視で老眼だから、モノを読んだり、書いたりするときの眼鏡と、ふだん掛けている眼鏡がちがう。
恥ずかしい話だけれど、これが疲れるのだ。いちいち外したり、掛けたり、ややこしくって、しようがない。
いまでも「近視の人間は老眼になりにくい」と信じているひとは多いみたいで、たまに電車の中で新聞持参の旧友に会ったりすると、胸のポケットから眼鏡を出しながら、
「きみは、はじめっから掛けているんだから、メンドくさくなくっていいなあ」
なんて、バカなことを言う奴がいる。そんなとき、こっちも別の眼鏡を取り出し、
「冗談じゃないよ」
と掛け直してみせると、たいがい目を丸くする。
モノを読むに際して、彼は、眼鏡を掛ければ、それでいいのである。こっちは、掛けていた眼鏡を外し、改めて掛けるのである。
「どっちがメンドくさいか、わかるだろ?」
へんなところで、威張っている。その眼鏡も、家にあっては、どの部屋でもモノが読めるように、部屋ごとに置いてあるのだから、たいへんである。
俗に、
「港々に女あり」
というが、わたしの場合は、
「一部屋一部屋に眼鏡あり」
といったところか。色気も、なんにも、ありゃしない。
われながら、
「不思議だな」
と思うのは、モノを読むなり、書くなりするため眼鏡を掛け直そうとして、まずやることは、ふだん掛けている眼鏡を外してしまうことである。それから、モノを読んだり、書いたりするときに掛ける眼鏡を捜しはじめる。
自慢じゃないが、ただでさえ目が悪いところへもってきて、わざわざ眼鏡を外して捜しものをしようというんだから、みつかるはずがない。それでも、手さぐりで�たぶん置いてあるだろう�場所を引っかきまわし、やっとみつけては、
「あった、あった!」
と喜んでいるわけで、ホント、考えたら他愛もない。
べつに言われなくたって、
「ふだん掛けている眼鏡を掛けたまま捜せば、捜しやすいのに……」
ということは、わかりすぎるほどわかっている。が、世の中には「ワカッチャイルケド」ということだってある。
——わたしは、この原稿を書くのにも、ふだん掛けている眼鏡を外してから、モノを読んだり、書いたりするときの眼鏡を捜してた。