このわたしに�青春�なんぞというものがあったか、どうか。中学一年のときに、横浜で戦争に負けたボクラ少国民にとって、性のめざめが、小説なんかではなく、進駐軍相手のパンパンによってもたらされたことは、いまでも悲しい。
「接吻」
という字が読めなくて、
「セツブツって、なんですか?」
と質問して、若い教師を困らせた同級生もいる。映画『はたちの青春』が封切られたころである。
「商人の子に学問は要らない。本なんか読んでるヒマがあったら、店の掃除でもしろ」
と言い張る父親の目を盗んで、わたしが太宰治を読みはじめたのは、なにがキッカケだったのだろう? 恥ずかしい話だが、すっかり忘れてしまっている。
太宰の作品も、いきなり『斜陽』や『人間失格』を読んだわけじゃない。少年らしく、比較的健康な『走れメロス』や『パンドラの匣《はこ》』に酔っていたのだ。
なかでも『パンドラの匣』に登場する健康道場の助手(看護婦)である竹さんは、わたしの理想の女性像だった。わたしたちは、健康道場の助手をマネて、
「やっとるか」
「やっとるぞ」
「がんばれよ」
「ようし来た」
といった挨拶を交わして喜んでいたんだから、他愛もない。
そんなわけで、
「戦争未亡人と情死」
という新聞記事を読んだときの衝撃は、譬《たと》えようがない。あれこそは、ちょっぴり晩稲《おくて》の文学少年に、
「性とは何か? 愛とは何か? 人生とは何か?」
ということを、稚いながらもマジメに考えさせるようになった一大事件だった。
「相逢ったときのよろこびは、つかのまに消えるものだけれども、別離の傷心は深く、私たちは常に惜別の情の中に生きているといっても過言ではあるまい」
わたしは、いまでも太宰の文章の一節を諳《そら》で言えるが、そのころのわたしが校内の文芸雑誌に太宰そっくりの文章を書いていたことは、中学・高校で同級生だった宮原昭夫や生島治郎が時々語り草にする。わたしは、太宰を通じてチェーホフを知り、坂口安吾、織田作之助を知った。そして、オダサクを通してスタンダールを知る。
織田作之助については、思い出がある。担任の教師に、
「なにを読んでる?」
と訊かれて、
「太宰とか、安吾とか……」
と、わたしは答え、織田作之助の名を言うのを失念したら、なぜか教師が安心したように、
「そうか。太宰や安吾なら、まあ、いい。しかし、オダサクはいけない」
と笑ったのだ。
「なぜ太宰や安吾ならよくて、オダサクがいけないのか?」
わたしは、のちのちまで悩んだが、さすがに教師に向かって、問い詰めるほどの勇気はなかった。わたしは、意外に気がちいさかった。
織田作之助の作品では『夜の構図』が好きだった。書き出しの、
「並んで第一ホテルを出ると雨であった。鋪道の濡れ方で、もう一時間も前から降っていたと判った。少しの雨なら直ぐ乾き切ってしまう真夏の午後なのだ」
という文章もさることながら、
「女の美しさをいつまでも胸に抱いているには、その女と交渉を持たないことだ!」
「嫉妬が起れば、人はもう惚れていないものをも、惚れていると思いこんでしまう」
といった警句(?)に痺れていたように思う。そうして、それにも増して、主人公の信吉がスタンダールの『赤と黒』を読み返しながら冴子を口説くシーンを読んで、
「オレも『赤と黒』を読もう」
と思い立った。
いまにして思えば、俳句は叙事で、短歌が抒情であることを教えてくれたのも、織田作之助ではなかったか。