このわたしに、
「若い日なんてあったんだろうか?」
と思うと、つい筆が鈍ってしまう。わたしは、生まれたときから、いまみたいにふけていたような気がしてならぬ。
試しに古いアルバムを引っくり返してみたら、十七歳のころの写真が出てきた。その表情は、白髪頭の現在とほとんど変わっちゃいない。
われながら、可愛気のない子だった。器量が悪いばっかりに、ただただ他人にホメられたくてアクセクしていたような気がする。
学校のことで言えば、試験の成績で勝負するのは、はじめっからあきらめていた。ナマイキに、
「どうせ�いい点�をとったところで、先生にはエコヒイキする相手がいるだろうから、認められっこない」
とキメこんでいたフシがある。
その代わり、小・中・高校時代は、皆勤賞とか精勤賞とかを狙った。これなら、
「だれからも文句を言われず、だれにも迷惑をかけずにホメてもらえる」
と考えていたようだ。
そのくせ、将来は学校の先生になるつもりだったんだから、おかしい。大学では、正規の課程のほかに教職課程をとった。四年のとき、卒業した高校へ教育実習に出かけたりもした。
それでも先生になれなかったのは、教職課程の単位が一つ足りなかったせいだ。当時の流行語に「デモシカ先生」というのがあったが、わたしは、そのデモシカ先生にもなれなかったことになる。
教育実習生として久しぶりに訪ねた母校に、女子の生徒がいたのにはビックリした。わたしたちが巣立ったころは、戦争に負けて、せっかく民主主義の世の中だというのに、なぜか男女別学だったのである。
その名残かどうか、クラス編成は、男子、女子に分かれていた。わたしは女子だけのクラスを担当させられ、ヘキエキした。
早い話が、教室の右の列を見ながら授業をすすめると、
「センセイはナントカちゃんに気があるのよ」
といった私語が聞こえるのである。そこで、左の列を見ながら授業をすすめると、こんどは、
「やっぱりカントカちゃんが好きなんだわ」
という声が聞こえる。仕方がなくて校庭を見ながら授業をすすめたら、
「まあ、よっぽど横顔に自信があるのね」
デモシカ先生について言うなら、わたしは、
「教師にでもなろうか。いや、教師にシカなれない」
といった気持ちを否定的な意味には解釈したくない。みずから、
「自分の職業は、これにシカなれない」
と言い聞かせたとき、そこに天職であることへの自覚がめざめると信じているからである。
早稲田に入ったとき、友人たちからは、
「いかにもオマエらしい」
と言われた。新聞記者になったときも、友人たちは、
「いかにもオマエらしい」
と言ったものだ。そうして、会社をクビになったときも、また……。
そんなわけで、このわたしが、若い日に「学校の先生になりたい」と思ったことなんか、周囲の人たちは知らない。まして女房なんか知るはずもない。
わたし自身は「それで、いいのだ」と思っている。俗に「若い日は二度ない」と言うけれど、わたしに言わせれば、この中年の日も、老年の日々も、二度とないのだ。
わたしは、それこそ若い日と同じように、いまも、その日その日をアクセクと生きている。ただもう、若い日と違って「他人にホメられたくて」といった気持ちだけは捨てようとしているが——。