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男のためいき女の寝息60

时间: 2020-02-07    进入日语论坛
核心提示:俳句と遊び心「遊びとは?」と訊かれたら、「おカネにならないこと」と答えたい。人間万事、カネで量られる世の中で、「ひとつく
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俳句と遊び心

「遊びとは?」
と訊かれたら、
「おカネにならないこと」
と答えたい。人間万事、カネで量られる世の中で、
「ひとつくらい、おカネにならないことをやってもいいじゃないか」
というのが、偽らぬ気持ちである。それが、遊びだ。
振り返ってみると、いつも二足のワラジをはいていた。自分で言うのもナンだけれど、食べていくのに、一足のワラジだけでは心許《こころもと》なかったのだ。
新聞記者時代に、ミステリについてのエッセイを書くようになったのも、そんな理由からだった。新聞記者として、それなりの成果を挙げられなかった場合に、
「オレは、ミステリについてのエッセイを書いていたもんだから……」
という言いわけが欲しかった。もちろん、自分自身に対する言いわけである。
しかし、これは失敗だった。それまでは遊び心で読んでいたミステリが、
「おカネを稼ぐ材料になる」
ということになると、俄然、面白がってばかりもいられなくなってしまったのだ。ときには、苦痛でさえある。
そんなとき、
「句会をつくらないか」
と声をかけてくださったのが、小説家の結城昌治さんだった。これが、第一次「くちなし句会」だった。
句会には、新聞記者時代に五回ほど参加したことがある。同僚たちでつくった句会で、夜勤の合間に集まっては、
[#ここから改行天付き、折り返して3字下げ]
病みし子のひたいの汗や台風くる
浴衣着て少女の髪のやわらかき
夕焼けのけわしき貌に立ちつくす
花はちりぢりになおコスモスの風に立つ
末の娘《こ》の細き腕《かいな》よ枯葉落つ
[#ここで字下げ終わり]
といった句を詠んだりしたものだ。一九六八年(昭和四十三年)のことである。
そのころのノートに、誰の言葉か、
〈われわれは「物いへば唇寒し穐《あき》の風」(芭蕉)的作句態度を避けて「蟇《ひきがへる》誰かもの言へ声かぎり」(楸邨)にみられるような若さと勇気のあふれた世界をめざしたい〉
 とメモしてあるのも、おかしい。声をかぎりモノを言おうとした夜勤の句会が、一年で潰れちゃうんだから……。
それは、まあ、それとして、
「句会といっても、宗匠を仰ぐわけじゃなし、あくまでも遊びだよ」
という結城さんの言葉に誘われたのが、七八年(五十三年)のこと。まさしく十年ぶりの句会だった。
メンバーは、
「一業種一人」
ということで、画家の村上豊さんはじめ八人。結城さんの説明によると、
「テーブルを囲んで、ちょうど声が届く範囲か」
といった人数である。
句会の名を、
「くちなし句会」
としたのは、初心者ばかりのメンバーのなかに、今は亡き落語家の金原亭馬生さんがいて、落語の『雑俳』に出てくる「くちなしや鼻から下はすぐに顎」に因んだのだ。それこそ、
「オレ、山梔子《くちなし》の花なんか見たこともない」
という仲間もいて、そりゃあ、賑やかなものだった。
幸か不幸か、わが家の猫の額ほどの庭には山梔子の木があって、そのころ、わたしが詠んだ句に、
 晴れぬままくちなし匂う夜となりぬ
 というのがある。言っちゃナンだが、とても自分の作品とは思えないような、素直な句だ。
ところで、この「くちなし句会」は、五年目に馬生さんが急逝し、解散した。わたしたちは、つづけて句会を開きたかったのだけれど、結城さんが、
「こうして一人減り、二人減りしていくのを見るのは忍びない」
というので、強硬に解散を主張したのだ。おかげで、わたしは、ふたたび句作から遠ざかることになる。
自慢じゃないが、意志薄弱である。句会もなくて、このわたしに俳句を詠むことなんかできない。わたしは、
「ひとつくらい、おカネにならないことをやっていてもいいじゃないか」
と言いながら、それさえも失った。貧乏性のせいか、わたしは、なかなか遊べないみたいだ。
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