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男のためいき女の寝息71

时间: 2020-02-07    进入日语论坛
核心提示:誰か飲み屋を想わざる行けば、かならず誰かに会えた。それが、魅力だった。バカみたいな話だが、わたしたちが外で酒を飲むのは、
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誰か飲み屋を想わざる

行けば、かならず誰かに会えた。それが、魅力だった。
バカみたいな話だが、わたしたちが外で酒を飲むのは、なにも酔うためだけではない。酔うためだけなら、家で飲めばよいのである。
なに? 家で女房相手に飲んでた日には、酔えないって? そりゃ、ま、そうだ。そりゃ、ま、そうだけれど、それでもわたしたちが外で酒を飲むのは、酔いたいこともあるにはあるが、誰かに会いたいのである。誰かに会って、他愛もないことを喋りたい……。
そういう意味で、東京は新橋・烏森の飲み屋「多幸」は、わたしにとって恰好の場所だった。よくみると、いや、よくみなくても、
「昔は、けっこう美人だったんじゃないのかなあ?」
と思われるママが、アルバイトの女性一人を使ってやっている店だが、常連の半分はわたしが連れていった友人か、わたしが連れていった友人が連れてきた人間だから、そこへ行けば、確実に誰かに会えた。
だいたいが、新聞記者時代からの行きつけだから、ママとは、指折り数えて十五年余のつきあいだ。いや、この店にはママの前の代から来ているので、店とのつきあいは、それ以上になる。
ひところは、常連を「一年A組」と「一年B組」に分けたことがある。週のうち、月曜、水曜、金曜日に通ってくるのが「一年A組」で、火曜、木曜、土曜日に通ってくるのが「一年B組」だった。
わたしは、その両方の「級長サン」だったのだから、どれくらい通いつめていたか、わかるだろう。そこは、横浜に住むわたしにとって、一時期、東京の応接間でもあった。
「東京の編集者に会う」
ということであれば、
「例のところで一杯やっててください」
というのが、わたしの決まり文句だった。編集者に待っていてもらうのに、場所も、フンイキも手頃だった。
「午後五時を過ぎた」
ということになると、
「どうせ電車はラッシュだから」
というわけで、わたしは新橋は烏森の××小路の三階にある「多幸」の扉を押した。結局は終電になってしまうのだが、電車を待ちながら飲んでいるのに、距離も、値段も適当だった。
この店には、新橋の新聞社で学芸部長をやっていたとき、○○通信社のK君に初めて連れてこられた。前のママが板さんと女の子を雇っており、ちょいとしたものを食べさせてくれた頃である。
そのうちに、わたしは社をクビになり、四谷に勤め先が変わった関係もあって、いつのまにか足が遠のいていた。四谷から新橋までは、国電にしたって、地下鉄にしたって、いちど乗り換えなければならず、仕事を終えてから、
「飲みに行こうか」
というのには、かなり不便だった。
おまけに、四谷駅周辺には、たくさん飲み屋があった。わざわざ新橋まで出かけなくても、同僚と一緒に飲むのには四谷で飲むほうが都合がよかった。
それが、ふたたび新橋の「多幸」に通い出すようになったのは、いわゆる内職原稿のほうが忙しくなったからだ。編集者に会って原稿を渡したり、打ち合わせをしたりするには、やはり、新しい勤め先から少しでも遠い所のほうがよい。
そのころ、ふたたびK君がやってきて、
「知ってますか?」
と言う。
「なにが?」
「あの『多幸』のママが代わったんです。ちょっと行ってみましょうよ」
しかし、そのときは同行を断ったような気がする。ママの記憶でも、わたしが初めてこの店へ顔を出したのは、一人だった——ということになっている。
入ってくるなり、
「青木雨彦です」
と言ったそうな。そして、
「知ってますか?」
と、しきりに訊いていたみたいだ。
十五年も前のことである。いまでもそんなに売れているとは思わないが、当時はまるっきり知られていなかった。すでに『週刊朝日』にインタビュー記事を書きはじめていたが、それも(雨)というサインだけで、フルネームではなかったから、知名度なんかゼロだった。
そんな客に、ママの第一印象は、
「なんてウヌボレの強い人だろう」
ということだったらしい。それまでは小料理屋かなんかに勤めたことはあっても、ほとんどシロウトに近いママにしてみれば、
「そんな人、知ってるもんですか!」
といった反撥もあったろう。
しかし、これは、ママの記憶ちがいである。わたしが、
「青木雨彦です」
と名乗ったのは、例のK君に、
「あなたの名前でボトルがキープしてありますから……」
と言われていたためだ。代が替わって、一、二度、ここへ顔を出したK君も、はじめのうちはママのシロウトっぽさになじめなくて、
「飲み屋の権利(?)一切をあなたに譲渡する」
と宣言した。
それでノコノコ出かけたわたしは、カウンターの隅に放ったらかしにされ、
「青木雨彦です。オレのボトルがあるはずだ」
と、大きな声を出したのである。ママは、そのとき、自分が前の勤め先から引っ張ってきた客の相手に夢中になっていた。
そんなママとわたしが、どうして意気投合するようになったのかは、わたしの記憶にない。とにかくわたしは、
「ボトルにキープしてあるだけの酒は、飲んでしまいたい」
と、二、三度、続けて通ったのではなかろうか?
わたしにとって、最高の思い出は、一九七七年(昭和五十二年)に、わたしがミステリにおける男と女の研究『課外授業』で日本推理作家協会賞を受賞したとき、ママはもちろん、店の常連のほとんどが新橋第一ホテルの受賞パーティに駆けつけてくれたことだ。そうした飲み仲間のなかには、ガス会社に勤めているS氏もいれば、建築会社を経営しているNさん、通産省の役人だったMさんたちもいて、協会賞の受賞パーティ参加者としては、きわめて異色の顔ぶれだったろう。
その「多幸」が急に閉店することになって、わたしは途方に暮れている。前にも、ママが体の不調を訴え、
「やめたい」
と言い出したことがあるが、そのときはツケを払いにいった連中が額を寄せ集め、週休三日制とすることで、強引にやめることをやめさせた。
ところが、こんどばかりは、ママの意志は固いようだ。常連の一人である新聞記者のAくんが、
新橋駅に 陽《ひ》はおちて
と、あの『誰か故郷を想わざる』のフシで替え歌を歌ってママを励ましたが、やっぱり、ダメだった。
銀座の大きい店や有名な店が閉じていくことに、わたしは、なんの感傷もない。だが、こんなふうに十人も入れば一杯になってしまうような店が潰れることに、わたしは心から悲しみを感じている。
そんなわけで、わたしが東京で飲む機会はグーンと少なくなった。おかげで、若い編集者たちから、
「あなたもトシですね」
と言われるが、決してそうではない。行けば、かならず誰かに会えるような、そんな飲み屋がなくなってきたから——である。
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