一、日本国籍を明示すること
一、音楽家であることを示すこと
一、事故をおこさないこと
というのが、スクーターを借りるときの条件だったそうな。そのために、二十三歳の彼は、白いヘルメットに日の丸の鉢巻きをしめ、ギターをかついでスクーターにまたがったのだ。そうして、神戸港から、貨物船でヨーロッパに旅立った。
彼——
いうまでもなく、戦後の日本が生んだ最初の世界的な指揮者である小沢|征爾《せいじ》だ。その年、つまり、一九五九年(昭和三十四年)に、小沢さんは、フランスはブザンソンの国際指揮者コンクールで一位を獲得した。
そのスクーター行脚《あんぎや》のことを、小沢さんは、著書『ボクの音楽武者修行』(新潮文庫)に、こう書いている。
「五キロおきに人間のつきあいができ、五キロおきに地面に寝ころがって青い空を眺めた。目に沁《し》みるような青い空だった。そして美人に会うとゆっくり観察し、うまくいくと一緒にお茶を飲むこともできた」
俗に、
マッハ族
暴走族
ナナハン族
オトキチ族
とか呼ばれているけれど、その先駆者みたいな「カミナリ族」という言葉が流行したのも、同じ年だった。いまのオトキチ族は、一四〇キロの時速で飛ばすそうだから、とてもじゃないが、五キロおきに人間としゃべることなんて、できやしない。
それにしても、
「オートバイは本来おとなの乗り物だ。ガキどものおもちゃではない。おとなとは要するに、ちゃんと働いて家族を養っている男であって、それ以上の条件はない」
と言ったのは、小説家の丸山健二さんだ。そのとき、丸山さんは、単気筒ツー・サイクルのエンジンを脚のあいだに挟んで、北アルプスの山々を走りまわっていた。
スクーターといい、オートバイといい、バイクともいう。道路交通法でいえば、原動機付自転車に属する。要するに、自転車なのである。間違っても、ガキのおもちゃであってはならぬ。