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男の日曜日06

时间: 2020-02-07    进入日语论坛
核心提示:狸《たぬき》の筆のさき「習字」というやつが、苦手だった。いまでも、苦手だ。習字には、思い出がある。中学生のとき、先生が書
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狸《たぬき》の筆のさき

「習字」
というやつが、苦手だった。いまでも、苦手だ。
——習字には、思い出がある。中学生のとき、先生が書いてくれた�お手本�に、自分の名前を署《しる》して、そのまま提出したところ、先生は、朱筆《あか》を入れて返してくださったのだ。
以来、相性が悪い。パーティや結婚披露宴の受付に、記帳用の筆といっしょにサインペンが用意されていると、ついサインペンのほうを握ってしまう。
ところが、エッセイストの江國滋《えくにしげる》さんが、
「自分は生来の悪筆で、だからサインペンを使うのだ、という人が多い。
これはあべこべではないか。
悪筆だからこそ、筆を使うべきなのだ。そのほうが、よっぽどトクであることに、サインペン派はなぜ気がつかないのだろう。サインペンでちゃんとした字を書ける人は、よほどの能筆家である。私はいまだにサインペンでは字が書けない」
と書いていらっしゃるのを読んで、
「そんなものかなあ」
と、すこうし考えがぐらついてきた。われながら、主体性のないことである。
たしかに、西洋の書法《カリグラフイ》は、文字をインクとペンによって皮革や紙の上に書き、読者にハッキリ読めるようにする技術にすぎないが、中国・朝鮮・日本の書は、墨汁を含んだ毛筆で紙や絹の上に中国の象形文字、すなわち漢字を書くのだから、下手は下手なりに味を出すことも可能だ。つまり、個性を発揮することができるのである。
そんなわけで、この国の小説家たちのなかには、
「原稿も、筆で書く」
という方が、何人かいらっしゃる。いまは亡き佐賀潜さんもその一人だったが、ご子息がしみじみと言ったものだ。
「父は、あれで、小説さえ書かなければ、ホントにいい父でした」
それは、まあ、ともかく、せめてラブレターぐらいは、筆で書けるようになろう。そうして、
※[#歌記号]口説き上手の
この文《ふみ》 ご覧
どうせ狸《たぬき》の筆のさき
と唄われるくらいになろう。
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