「趣味は?」
と尋ねたら、
「硯のコレクション」
と答えた男がいる。とくに名を秘す必要もないが、売れっ子の小説家である。
「それで、この硯を、あっちの家こっちの家に置いときましてネ、時々出かけていっては、洗ってやる」
「洗う?」
「そうです。硯だって、時々洗ってやらないと錆《さ》びちまう」
聞いているうちに「そうか、そういうことか」と思い当たった。とたんに、無性に羨《うらや》ましくなって、
「しばらく行かないうちに、誰か若い奴が代わりに洗っていたりして……」
と茶々を入れたら、
「そうなんだ。それで、このあいだも、一人と別れた」
しかし、こういうことは、げんに既成のモラルとたたかっている小説家だからこそ可能なのであって、悲しい哉《かな》、われわれみたいに一個の硯でももてあましているような凡人には、とうていマネのできることではない。われわれのような凡人は、精々がウインドーに飾ってある硯を眺めさせていただくだけで満足すべきだろう。
それでも、ときに手にとらせてもらえることがある。そういうときは、もちろん、肌ざわりとか、重みとかいったことが、鑑賞の対象になる。
それにしても、
「硯を洗う」
という鑑賞法は、古くは宋《そう》の時代(九六〇年ごろ)から、あったらしい。マジメな話、硯を水中に入れて、日光の下で鑑賞する。
その所作には「天然の石の色や紋などを、判然とした姿で眺めたい」という意図のほかに「硯を清める」といった心根があったにちがいない。北畠雙耳《きたばたけそうじ》・北畠|五鼎《ごてい》共著の『中国硯鑑賞』(玉川堂)には、そうしてはじめて、
「長年のあいだ洗硯《せんけん》によって着いた手沢と古色とは、古い硯の生きてきた年輪というものを如実に私達の眼前にその姿を現してくれている」
と書いてある。
やはり、硯は一個で沢山だ。