バカげたことに、女たちは「女の自立」をかちとる手段として、ことごとに、
「女にも就職口を与えよ!」
と主張してきた。会社に就職しさえすれば、それで、
「自立の道はひらける」
と、カンちがいしたらしいのである。
そういうことならば、それまでの日本のサラリーマンは、
「みんな、自立していた」
ということになってしまう。正直な話、自立した人間が、ドブネズミ色の背広を着て、毎晩のようにナワノレンかなんかで上役の悪口を言って、日頃の鬱を晴らしたりするだろうか?
鬱——
みればみるほど、鬱陶しい文字ではないか。こんな字、よほどの躁状態でなければ、なかなか書けないにちがいない。
そんなわけで、われら男どもが「男の自立」を考える場合は、女たちが、
「女にも就職口を与えよ!」
と主張して、結局は働き蜂《ばち》に堕してしまったような、愚かなマネだけはしてはならない。女たちが「働く権利」を主張するなら、われら男どもは「怠ける権利」をこそ主張しよう。
あの『マタイ伝』にも、
「野の百合《ゆり》はいかにして育つかを思え。労せず、紡《つむ》がざるなり」
とあり、あの『梁塵秘抄《りようじんひしよう》』にだって、
遊びをせんとや生《う》まれけむ
戯《たはぶ》れせんとや生《む》まれけん
遊ぶ子どもの声きけば
わが身さへこそゆるがるれ
とある。ひとつ、これからは野の百合のように、そうして、子供のように生きてみたいものだ。
ホント、働くことは、あんなに働きたがっている女たちに任せ、しばらくは遊び呆《ほう》けてみたいが、どうだろう?