初めてナマコを食べた人間もエラいにちがいないが、
「二番め、三番めにナマコを食べた人間も、エラい」
というのが、わたしの極めて個人的な意見だ。したがって、何十何億何千何百何十何万何千何百何十何番めかにナマコを食べているあなたも、
「エラい」
ということになる。
ホント、いくら最初にナマコを食べた人間がいるからといって、二番め、三番めにナマコを食べた人間がいなければ、四番め、五番めはありえず、トーゼンのことながら、何十何億何千何百何十何万何千何百何十何番めかの|あなた《ヽヽヽ》もありえない。|あなた《ヽヽヽ》がいなければ、|あなたの次《ヽヽヽヽヽ》もいない。
されば、
「食べる」
ということは、誰にもできることだ。その証拠に、かのブリア・サヴァランにもできる。
だいたいが、ブリア・サヴァランとやらに言わせると、
「新しい御馳走の発見は、人類の幸福にとって天体の発見以上のものである」
ということだけれど、いまさら新しい天体を発見したところで、どうにかなるわけのものでもあるまい。わたしには、古い馴染《なじ》みの天体である月に、
「かぐや姫も、ウサギも棲《す》んでいない」
ということを発見されたときのほうが、よっぽど悲しかった。
ところで、紀貫之《きのつらゆき》とかいうひとが女性に仮託《かたく》して書いた『土佐日記』には、いかにも女性らしく、
「朝起きて、ナニして、それからナニして……」
と、一日のことがこまごまと綴ってあるそうな。そのなかに、朝起きて、
「例のことどもして」
という、恥ずかしげな記述があるらしい。
これが、三谷栄一博士の註《ちゆう》によると、
「例のこととは朝食なり」
というから、いや、ホントに恥ずかしい。まして、わたしみたいに、朝、昼、晩と例のことどもして、間食もして、それだけでは足りずに、為《な》すこともなく、食を夢みていた日には、いったい、どうなってしまうんだろう?