「河の上には、スケートのエッジを磨く店や、焼栗や餅を売る屋台が何軒も出ていた。私たちはスケートの歯の切れが悪くなると磨き屋でといでもらった。とぎ立てのスケートはよく氷をホールドして、急に上達したような錯覚をあたえる。私たちはすべり疲れると屋台で餅を食ったり、アメ湯を飲んだりして、再び氷の上に出て行くのだった」
と、小説家の五木寛之さんがエッセイ集『重箱の隅』(文藝春秋社)に書いている。あの五木さんがスケートをやるとは思わなかった。
ここに描かれている河は、朝鮮半島の北部を流れる大同江だ。冬になると、戦車が氷上を渡っていったそうな。いかにも、外地引き揚げ派の領袖《りようしゆう》らしい文章ではないか。
「スケート」
といえば、すぐに滑ることを連想し、
「滑る」
というと、とたんに入学試験を連想してしまう。どうも、わたしのイマジネーションは貧困で、いけない。いやあ、受験生諸君、ご苦労さん!
下世話《げせわ》にも、
「朝の来ない夜はない」
というくらいのものだ。きみたちの現在が暗ければ暗いほど、未来は明るい——と思う。ま、それなりに頑張ってくれたまえ!
そして、それは、まあ、ともかく、氷上を滑ることを、
「これは正確にいえば、スケートですべることによって、氷とスケートの間に水《ヽ》を発生させ、人はその水面《ヽヽ》をすべってゆくことを意味する。それがスピード・スケート競技の骨子なのである」
と言ったひとがいる。エッセイストの虫明亜呂無さんだ。
虫明さんによると、だから、
「ぼくたちは氷の上で、片足が水中に沈まぬうちに、片足を前にだしの理くつを、実際にやってみることをせまられる」
という。なんだか、右足が地面につく前に左足を出し、その左足が地面につく前に右足を出し、その右足が地面につく前に左足を出せば、
「空を飛ぶことができる」
と言われているみたいだが、ホント、だいじょうぶかなあ。虫明さんは、まさか大学を滑ったわけではないだろうなあ。