「イッキイッカイ」
と言うから、
「なんのことだろう?」
と思ったら、茶の湯でいう「一期一会」のことだった。ホント、一生に一度のことである。
「蹲踞《つくばい》」
という。内路地の、茶室に近いところに据えられている石の手水鉢《ちようずばち》だ。
それは、低く、地面すれすれに据えられているので、手水をつかう時は、その前につくばわねばならぬ。それで、この手水鉢を「蹲踞」と呼ぶらしい。
客は、この蹲踞の水で、手を洗い、口をすすいでから、茶席に入る。蹲踞は、手や口を清めるためだけのものではない。そのことによって、わたしたちは、まず心を清めるわけだ。
——芝木好子さんに『隅田川』という短篇《たんぺん》があって、これは、恐ろしい小説である。そのなかに、こんな描写がある。
「茶室の支度が調ったとみえて、客は目の法楽からよび戻され、ぞろぞろ階下へ降りていった。庭から狭い茶室へはいるまえに、客は蹲踞にかがんで手を浄《きよ》めた。菊良が帯地のまえから離れてきたのは一番あとだった。そのために庭に降りたのもしんがりであった。恭子はさきに柄杓《ひしやく》の水で指を濡して立った。そのあとに菊良がいた。恭子はさきにゆきかけた。少し後ろに立っていた目許《めもと》の涼しい女客がなにげなく自分のハンカチを菊良に手渡し、菊良がそれを黙ってうけとって拭くのを恭子はみた」
説明しなければいけないが、この小説で「菊良」というのは芝木さんの父で、また「恭子」というのは十七歳のときの芝木さんだ。つまり、十七歳の芝木さんは、蹲踞の前で、目許の涼しい女客が自分のハンカチを父に渡し、父がそれを黙って受けとったという、ただそれだけのことで、お母さんも知らないお父さんの浮気を見破ってしまうのだ。
げに恐るべきは、娘のカンだろう。このぶんだと、うっかり娘を連れて喫茶店に入ることもできやしない。
そこで、ウエイトレスにおしぼりかなんか渡されてごらん。それこそ、娘は勝手に傷つくのである。慌てて、
「イッキイッカイ」
と叫んでも、はじまらぬ。
げに恐るべきは、娘のカンだろう。このぶんだと、うっかり娘を連れて喫茶店に入ることもできやしない。
そこで、ウエイトレスにおしぼりかなんか渡されてごらん。それこそ、娘は勝手に傷つくのである。慌てて、
「イッキイッカイ」
と叫んでも、はじまらぬ。