自慢じゃないが、泳げない。中学生だか高校生だかのときに、逗子《ずし》の海岸で溺れて、いまは小説家の生島治郎と名乗っている友人に救《たす》けてもらったことがある。
いうなれば、あのかたは命の恩人である。命の恩人だから、
「そろそろ女房《マネージヤー》を代えたら、どうだ?」
と言われれば、
「そうだなあ」
と答えざるをえない。マネージャーには申しわけないけれど、マネージャーよりも、命の恩人の言葉のほうが大切である。
その恩人によると、わたしの溺れ方は、ふつうの溺れ方とはちがっていたらしい。ふつうは、溺れると、暴れたり喚いたりするのだが、わたしは、そんな気配はこれっぽっちも示さず、ただ一本の棒みたいに、静かに浮いたり、沈んだりしていたようである。
救けられて、
「溺れているんなら、なぜ暴れたり、喚いたりしないんだ?」
と詰問され、わたしは、
「なにしろ、オレ、溺れ方も知らなかったもんだから……」
と答えたそうな。だいたい、泳ぎ方を知らないんだから、溺れ方なんて知ってるわけがない。
しかし、いくら自分が泳ぎ方を知らないから——といって、マネージャーとのあいだに出来た娘たちに、
「泳げない」
と言うわけにはいかない。そんな素振りをみせようものなら、娘たちが水を恐がってしまう。
そこで、幼い娘たちの前では、泳げるふりをした。よせばいいのに、南|伊豆《いず》の海岸で、|波乗り《サーフイン》のマネまでしてみせた。
でも、あのときは、失敗した。サーフボードと一緒に浮かびあがったら、娘たちに、
「お父さん、メガネは?」
と、声をかけられたのだ。わたくし、理由《わけ》あって、海の底にメガネをば置いてきた……。
いま、娘たちは成長して、大学生の長女は背泳が得意だし、高校生の次女は水泳の選手で、小学生の三女はスイミング・クラブの人気者である。泳ぎ方も、溺れ方も知らない父は、トーゼンのことながら潜り方も知らないが、いつかスキン・ダイビングを習って、
「あのメガネを探しにいこう」
と思っている。