小説家の渡辺一雄さんに、
「窓際族の敵は、窓際族だ」
という話を伺った。渡辺さんは、
「その証拠に、仲間がカムバックしたのを喜ぶ窓際族なんて、みたことがない」
とおっしゃる。
たしかに、窓際族の誰かが復帰しようとしたら、いちばん先に足を引っ張るのは、ほかの窓際族たちだろう。あることないこと言いふらして、彼の復帰を阻止しようとするにちがいない。
俗に、
「同病相|憐《あわ》れむ」
というが、相憐れむのは、おたがいが同じ苦痛を感じているときだけのことである。いっぽうが、
「その苦痛から脱しそうだ」
ということであれば、たちまちのうちに反撥してしまう。これ、人間の情理ではあるまいか。
わたし自身も閑職に追われたことがあるけれど、その間、わたしの行動を監視して、それとなく都合のわるいことだけを会社に告げていたのは、やはり、閑職に追われた同僚であった。閑職に追われただけあって、彼にはホカにやることがないのである。
わたしのほうは、適当に時間を潰《つぶ》すため外に出ようとするのだが、わたしが外に出たときに限って、
「青木くんがいないけれど、どうしたんでしょう?」
と騒いでみたりする。おかげで、わたしはパチンコにも行けなくなった。
こうして、おたがいが牽制《けんせい》しあうので、閑職に追われた者は、ますます身動きができなくなってしまう。われわれサラリーマンの常識では、
「閑職に追われたときこそ、自己啓発のチャンスだ」
ということになっているが、なあに、そんなことはデタラメだ。
窓際族同士が相手のジャマをしっこして、結局は、両方とも潰れるのを待っているわけだ。経営者にしてみれば、
「じつは、そこが狙い」
ということで、会社は、現実に仕事をしているであろうときよりも疲れてしまう者たちを、
「疲れているようだから……」
という理由で、肩叩きの対象に選ぶのである。
それにしても、
「窓際族の敵は、窓際族だ」
という言葉から思い出すのは、トーゼンのことながら、
「女の敵は、女だ」
ということだろう。女の敵が女なら、女の味方は男だろうか?
それが、必ずしもそうでないところに、人生のややこしさがある。女の味方が必ずしも男ではないように、窓際族の味方もまた、組合の連中ではない。
だいたいが、
「閑職に追われる」
というくらいだから、かつては忙しかったのだ。窓際族、すなわち、いちおうは役職についた身だ。あるいは、窓際族になっても肩書きだけはついている。
もちろん、名前だけの肩書きで、ホントの身分はヒラと変わらないのだけれど、なぜか組合の連中は、いちどでも役職についた人間に対しては冷たくて、たとえ彼らが希望したところで、
「組合に復帰する」
ということさえ認めない。わたくし思うのだが、組合が本気になって窓際族の救済を考えれば、会社のなかは、もっと明るくなると思うのだが、なぜか組合は窓際族をジャマ者扱いする。
じつをいうと、そこもまた、会社の狙いだ。会社は、従業員にいったん役職を与え、組合から離れさせたうえで、閑職に追いやるのである。
ホントに、
「明日は我が身」
というけれど、窓際族こそ、組合員の明後日の姿だろう。組合の役員は役職につくようなことはないからいいようなものの、ヒラの組合員なら、いつでも役職につけることができる。いかにも、窓際族は弱い。
ところで、
「窓際族の敵は、窓際族だ」
ということは、
「弱者の敵は、弱者だ」
ということであろうか? もし、そうだとしたら、
「女の敵は、女だ」
という言葉がある以上、女は弱者だとみなされていることになる。
女は、それでいいんだろうか?