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男の日曜日53

时间: 2020-02-07    进入日语论坛
核心提示:中学生の作文ウソかホントか知らないが、現代は新聞批判の時代なんだそうである。ある新聞の社説に、「いまは新聞批判の時代とい
(单词翻译:双击或拖选)
中学生の作文

ウソかホントか知らないが、現代は新聞批判の時代なんだそうである。ある新聞の社説に、
「いまは新聞批判の時代といわれる」
と書いてあったから、たぶんホントなんだろう。
「なぜ新聞批判なのか」
と、その社説は書いている。このあいだの新聞週間のことである。
「その一つは新聞のもつ強大な権力に対する庶民の恐れであり、いま一つは新聞の行き過ぎ、独善と偏向にたいする読者の怒りと反発であろう」
失礼ながら、
「ワカッテルジャナイカ」
といった感慨しか湧《わ》かない。言っちゃナンだが、これだから、新聞の社説は面白くないのである。
ナンデモワカッテイルつもりの新聞は、その批判の内容を、
「まず第一の批判は、新聞は真実を伝えているかということだ」
「第二は新聞の過剰なセンセーショナリズムへの批判だ」
「第三は報道面と社説、論評面の乖離《かいり》についての批判だ」
「第四は新聞は世論を代弁するものか、それとも世論を形成するものかという疑問だ」
「第五は新聞にありがちな建前論やないものねだり的な理想論に対する批判だ」
と分析してみせ、
「さて新聞はこうした読者からの批判にどうこたえるか。一番大事なことは批判を無視してはならないということだ。こうした態度は、言論の自由の上にあぐらをかいた新聞の驕《おご》りと、読者にうつるのであろう。
わたしたちはまず、この批判に謙虚に耳を傾けたいと思う。そしてその反省の上に立って、新聞の原点とはなにか、新聞の使命とはなにか、その使命を果たすために新聞はどうあるべきかを、真剣に考えたいと思う。新聞は真実を伝えているか、論調に偏向はないかという読者の問いに、現実の紙面の上でこたえていきたいと思う。
新聞はいま、あり余るほどの自由を満喫している。そしてこの言論の自由は当分侵されることはあるまい。もしこの言論の自由が崩れるとすれば、それは社会の公益としての使命を忘れた新聞の暴走以外にはない。そういえばきょうから、新聞週間がはじまる」
と書いている。ホント、うつしているうちにバカバカしくなってしまったが、これがいいトシをした人間の書く文章だろうか?
だいいちに、なにが「そういえばきょうから、新聞週間がはじまる」だ。この社説を書いた記者は、はじめっから、
「その日が新聞週間の第一日だ」
ということを知っていたにちがいない。いや、知っていたからこそ、この社説を書いたのだろう。
それなのに、
「そういえば……」
と書いて、さもいま気がついたようなフリをし、気の利いた結びのつもりでいる。シラケも、いいところだ。
それにしても、ものごとを批判ばかりしているせいか、新聞は、批判されることがヘタだ。批判されると、すぐムキになって、こんな中学生みたいな作文を書く。
「さて新聞はこうした読者からの批判にどうこたえるか。一番大事なことは批判を無視してはならないということだ」
くり返すようだが、
「アタリマエじゃないか」
と言いたい。アタリマエすぎて、おかしくもナンともない。
しかもなお、この社説は、その前に、
「つまり新聞に求められているのは、厳しい現実を直視した上での、具体的かつ現実的な提言であって、美しい言葉で飾られた建前論や、ないものねだり的な空想的理論ではないはずである」
と書いているのである。これこそ「美しい言葉で飾られた建前論」以外の、なにものでもないではないか。
会社にも、こういう奴がいる。会議のときなんか、わざわざ発言を買って出て、誰にも反対できないようなわかりきったことをグダグダと述べて、得意そうな顔をしている奴がいる。
たいがい、社長だ。社長じゃなきゃ、副社長か専務だ。副社長か専務でなきゃ、常務か部長か課長で、まさか係長でこんなバカなことを言う奴はいないだろうな?
こういうことは、
「なにも言いたいことがないのに、なにか言わなければならぬ」
というときに、間々起こりがちだ。それをやめさせる方法は、一つしかない。会議そのものをやめてしまうことである。
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