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男の日曜日79

时间: 2020-02-07    进入日语论坛
核心提示:他人《ひと》様に迷惑を「他人《ひと》様に迷惑さえかけなければ」という言い方が嫌いだ。いい意味の個人主義だか、わるい意味の
(单词翻译:双击或拖选)
他人《ひと》様に迷惑を

「他人《ひと》様に迷惑さえかけなければ……」
という言い方が嫌いだ。いい意味の個人主義だか、わるい意味の個人主義だか知らないが、
「他人様に迷惑さえかけなければ……」
とは、なんという思い上がった言い草だろう?
そう言うと、すぐに、
「じゃあ、他人様に迷惑をかけてもいいのか!」
という反応しか返ってこないところが、お粗末である。かりに、
「他人様に迷惑さえかけなければ……」
という言い方が嫌いだ——と言ったからといって、誰も、
「他人様に迷惑をかけていい」
とは、言ってない。
たとえば、子供の育て方である。誰かに、子供の育て方について、
「どんなふうに育てていらっしゃいますか?」
と訊く。すると、
「他人様に迷惑をかけないような子に育ってもらいたい」
という答えが返ってくる。
それが、
「イヤだ」
というのである。そいつが、
「他人様に迷惑さえかけなければ……」
といった高邁《こうまい》にして高慢な思想(?)につながっていく。
「他人様に迷惑さえかけなければ、それでいいじゃないか」
と言う。そう言う奴は、すくなくとも他人様に迷惑をかけないで生きているつもりなのだろう。
しかし、人間、オギャアと生まれてからオッ死《ち》ぬまで、他人様に迷惑をかけないで生きていくことができるだろうか?
なにも、あの太宰治が、
「生まれて、すみません」
と言ったみたいに深刻に考える必要はない。が、わたしたちは、
「わたしたちが、この世に生を享《う》けた」
という、ただそのことだけでも、
「誰かに迷惑をかけているのではないか」
といった思いぐらいは持っていたい。
ところが、
「他人様に迷惑さえかけなければ……」
という言い草には、ともすると、そうした思いも否定してしまいかねないような響きがあるように、このわたしには思える。
あの永六輔さんも、生きているということは誰かに借りをつくること、生きていくということはその借りを返してゆくことと歌っているではないか。
「生まれた」
ということは、
「借りをつくった」
というふうに考えたら、どうだろう?
そうして、
「生きていく」
ということは、
「その借りを返していく」
というふうに考えたらどうだろう?
そうすれば、
「他人様に迷惑さえかけなければ……」
といったような思い上がった発想は湧《わ》いてこないのではないか?
自分の子に対しても、
「他人様に迷惑をかけないような子に育ってもらいたい」
というような恐ろしい期待(?)はかけないのではないのか?
「他人様に迷惑をかける」
ときに、それは、生きていくうえでの素晴らしい証《あかし》のように、わたしには思える。わたしたちは、
「他人様に迷惑さえかけなければ……」
というような生き方を学ぶよりは、
「他人様に迷惑をかけて、しかもなお、それが愛される」
といった生き方のほうを学ぶべきではないだろうか?
俗に、
「人という字は、人と人とが支え合っている姿だ」
といわれる。ひとは、一人だけでは生きていけない。自分のほかに誰かがいて、それで初めて「人」なのである。それが、他人だろう。
だから、
「他人様に迷惑さえかけなければ……」
という言い方は、自分自身の�つっかい棒�である他人の存在をも無視しかねない。そんな空疎な人生なんて、このわたしは、ゴメンだ。
「どんな子に育てたい?」
と訊かれたら、すくなくとも、
「他人様に迷惑をかけて生きることが、どんなにか素晴らしく、ありがたいことかを知っている子に育てたい」
と答えよう。それが、たとえどんなに難しくても……。
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