私はいかにも血統書が家のなかに飾ってありそうな犬や猫が苦手である。どうもそういった犬や猫は子供のときから、
「お前は他の犬や猫と違うよ」
と耳元でささやかれて育てられたような気がするからだ。私がいちばん好きなパターンは、
「ポチ、元気?」
と声をかけると、
「はあ、おかげさまで」
といいたげに、一所懸命に尻尾を振られたりすることである。こういうときは、
「ああ、気持ちが通じ合った」
と満足してしまう。飼い主以外の人間にはつーんとして何の関心も示さない犬、猫はこの世に何の楽しみがあるのかと思ってしまうのである。
うちで飼っていたのはみんな迷い猫や捨て猫ばっかりで、血統書のケの字もない単なる駄猫だった。しかしそれでもちゃんとトイレの場所は覚え、やっちゃいけないと叱るとしぶしぶでもそれを守った。
「うちの猫はいつまでたってもトイレの場所を覚えなくて、催すとどこにでもしちゃうの」
などとなげいている友だちがいたが、そういうのは特別もの覚えが悪いのだ。血統書がない犬や猫だって、人間と共に十二分に生活が営める。血統書なんて単に人間のいやらしい格付けにすぎないのである。
ところがある日、その友だちが、
「さすがに血統書つきの犬や猫は違うわねえ」
と感心していた。話を聞いてみると彼女が習いごとをしている先生の家に行ったら、血統書のある犬が三匹、猫が五匹いた。先生は、
「血統書がない犬や猫なんて薄汚い」
というタイプの人だった。
「これはね、エリザベス女王も飼っていた犬とも血のつながりがあるのよ」
といって特にご自慢のジュリアンちゃんとかいう犬を抱きかかえて披露し、美猫コンテストで第三位をとったという、ペルシャ猫のマリリアちゃんに頬ずりしてみせたりした。先生の奇怪さにも驚いたが、彼女は犬や猫がほとんど声を発しないことに驚いたというのだ。うちで飼っていた動物たちは飼い主に似たのか、どうも食い意地が張っていて、お腹がすくとすぐ訴える目つきをして甘えて鳴いた。無視すると今度はもうちょっと声を大きくして鳴きながら足元にすり寄ってくる。それでも無視していると台所に行き、冷蔵庫の前にでんと座って、私が冷蔵庫を開けるまで延々と鳴き続けた。そして希望どおりに御飯をもらったあとは、こちらに尻の穴を向けてこんこんと寝る始末であった。ところが先生の家の犬、猫はほとんど動かずにテーブルや長椅子の上でおとなしく尻尾を揺らしている。まるで飾り物みたいなのだそうだ。
「ずいぶん、おとなしいですね。私なんか引っ掻かれて手が傷だらけです」
と友だちが線の何本もはいった手をみせると、先生は、
「まあ、そんなことするの。うちの猫ちゃんなんか爪を立てたことなんかないわ」
とのたまったとのことである。私のうちの猫ときたら友だちが来ると喜んですり寄っていき、お菓子を出すとそれをもらおうとして、精一杯かわいい顔と声をだして媚《こ》びていた。それに比べると先生のご自慢どおり、血統書がある猫はそういうあさましいところがないのかもしれない。でも家のなかにジュリアンだのマリリアだのという名前の動物がいるなんて、やっぱり私は気色悪くてしょうがないのである。
犬、猫が多いうちの近所に、突如アールデコ風の豪邸が建ち、そこの広い庭をころころしたシベリアン・ハスキーの子犬が走り回っていたのは去年の暮れのことだった。
「あそこの犬は血統書つきの相当いい犬らしいですよ」
と近くの八百屋のおばさんがいうので、私も前を通るたびにフェンス越しに犬が走りまわる姿を眺めていた。とてもかわいらしかったが、手足が太くてこれからずんずんと大きくなりそうな体つきをしていた。そして予想どおり犬はあっという間に大きくなり、今では広い芝生の庭を悠然と歩くようになってしまった。私がじっと見ているとむこうも首をかしげてこちらを見ていたりして、少しは庶民的感情があるのかなと思っていたのだが、その堂々とした姿は、玄関先の犬小屋にくくりつけられてキャンキャン鳴いているご近所のポチとは明らかに違っていたのである。
犬はそこの家の子供たちの格好の遊び相手で、夕方になると小学校の高学年と低学年の兄弟がバレー・ボールを手に庭に出てきて、犬と一緒に遊んでいた。キャッチ・ボールをしていると犬がボールを追いかけて走りまわる。兄弟はボールをとられまいと逃げながら素早くパスしていたが、兄のほうがボールを取ったときに、犬がじゃれてとびついた。兄弟と犬が団子状態になっていると、突然、「ボゴッ」という音と「キャイン」という声が同時に聞こえた。あらっとビックリして犬のほうを見ると、犬は芝生に突っ伏して、右前足で必死に顔面をこすっていた。兄が投げたボールが犬の顔面を直撃してしまったのだった。
「大丈夫か、ラッキー」
兄弟が笑いながらかけ寄っても、ラッキーは突っ伏したまま、いつまでも顔面をこすっている。
「さあ、やるぞ」
子供たちが気をとり直して誘っても、ラッキーは仲間にはいろうとはしなかった。ボールの顔面直撃がよほどこたえたのか、しゅんとして庭の隅っこでじっとしている。
「ラッキー、情けないなあ」
「かっこ悪い」
兄弟に口々にいわれても、ラッキーはそっぽをむいて聞こえないふりをしていた。ふつう犬というのは瞬間的に危険を避けようとする本能が勝れているのではないだろうか。ボールが飛んできたら顔をそむけるくらいはするのではないだろうか。それとも坊っちゃん育ちゆえに運動神経が鈍いのだろうか。それが室内犬のマルチーズやポメラニアンというのならともかく、仮にもあのシベリアン・ハスキーである。ボールをまともに顔面で受けてしまうなんて、よほどのことだ。これを目撃して以来、私は血統書がありながらちょっとオマヌケ君のラッキーのファンになり、フェンスの外から愛のまなざしを送っているのである。