夏の日の夜、家族でテレビを見ながら晩御飯を食べていると、よく頭上で音がした。箸と茶碗をもったまま天井を見上げると、そこにはぶんぶんと羽音をたてる「かなぶん」の姿があった。電球に近づいたとたん、はじかれたようにパッと離れる。まるで、
「あちちち」
といっているかのようであった。熱いのだったらやめればいいのに、「かなぶん」はいつまでたっても、電球に執着していた。大きく窓が開いているというのに、逃げようともしないでいつまでたっても家の中で、こうるさく騒いでいたのである。
「かなぶん」はつかまえるのも、とても簡単だった。私たちが草むらにでかけてつかまえるまでもなく、夜になるとむこうからやってきた。
「つかまえてくれ」
といわんばかりの態度であった。そしていらついたようにいつまでも、ぶんぶんと羽音をたてている。それを見ていると、こちらのほうまでいらいらしてくるのだった。
「うるさいわねえ。出ていかないかしら」
母親はお盆であおぎながら「かなぶん」を追いつめ、窓から外に出そうとした。ところが「かなぶん」は手足をふんばり、天井に必死にしがみついている。学生時代、テニスの選手でならした過去を持つ彼女がふりまわす、お盆の風にもめげなかった。「かなぶん」にしてみたら、人間の家の中に入ってくるよりも、外を飛び回っていたほうがよっぽどいいはずなのに、どうして家の中にずっといるのか、小学生の私は首をかしげていたのだ。
「あっ、下に降りてきた」
母親はますます勢いよくあおいだ。「かなぶん」も抵抗するのに疲れたのか、空中を力なく飛び、私の肩にとまる。そこをむんずとわし掴みにされて、哀れ虫カゴ行きになってしまうのであった。
「動物は自分が危険だと思ったところには、近寄らないんだよ」
私は母親からそう教えられた。ところがこの「かなぶん」はその逆である。虫カゴに入れられても別にあせったようすもなく、のそのそ歩き回ったり、カゴにしがみついたりしているだけ。私にとっていちばんの間抜けな生き物は「かなぶん」だった。
つかまえた「かなぶん」はとてもきれいな緑色をしていた。背中は玉虫色に輝いていた。このまま指輪やネックレスにしたら、友だちに大いに自慢できそうな気がした。しかしよくよく見ると道端の犬のフンにたかっている金バエにも色合いが似ていて、きれいなような汚いような不可思議な生き物であった。カゴの中からつまみ出してそっと握ってみた。軽く握ったこぶしのなかで「かなぶん」はこそこそと動こうとした。それがとてもくすぐったくて、私は「かなぶん」を握りつぶさないように注意しながら、その気持ちいい「こそこそ感」を味わっていた。
「はい、おしまい」
「かなぶん」をカゴに戻し、ふと手のひらを見て私はゲーッとなった。そこには茶色の小便と大便の中間みたいなものが、へばりついていて、それがまた信じられないくらい臭いのであった。むらむらと怒りがこみ上げてきた。「かなぶん」はさっきと同じように、カゴの中を間抜けに歩いている。
「よし、お仕置きだ」
私はそばにいた弟に、
「面白いことをしよう」
といって誘い、画用紙、マッチ、はさみ、ナイフ、クレヨン、セロハンテープを持ってこさせた。いたずらをする場合、共犯者を作っておいて責任の半分を相手にかぶせるのが小学生の知恵なのである。弟はおとなしく私の指示したものを持ってきた。
「お前はアメリカと日本の小さな旗を作れ」
私がそういうと手先の仕事が好きな弟は、喜んで両国の小さな旗を作りはじめた。私はマッチの軸を細く裂き、着々と準備をすすめた。
「できたよ、おねえちゃん」
たかだか一センチ角の紙にちゃんと、星も縞《しま》もあるアメリカの国旗と、日の丸が描かれていた。
「よし、よくやった」
私はていねいな仕事をした弟を誉め、細く裂いたマッチの軸にそれぞれの国旗をはりつけた。お子さまランチの赤い御飯の上に立っている旗のようだった。
「はい、『かなぶん』ちゃん、出ておいで」
私は間抜けな「かなぶん」をつかみ、両側に生えている細い足二本に、セロハンテープで国旗がついた棒をくっつけた。あおむけになった「かなぶん」は、手足をばたばたさせた。それに応じて両足にくっつけられた日米の国旗は、ばたばたと見事に振られたのである。ニュースで見たアメリカの偉い人にむかって、日本人がしたのと同じことを、「かなぶん」はやっているのだ。私も弟もキャッキャッとはしゃいで、懸命に旗振りをする「かなぶん」に声援を送った。
「何やってんの、あんたたちは」
後ろを振り返ると、そこには目を吊り上げた母親の姿があった。
「かわいそうじゃないの。あんたたちが『かなぶん』と同じことをされたら嫌でしょ。すぐその旗をとってやりなさい!」
自分があおむけにされ、テープで無理やり国旗をくっつけられ、振らされるのはやっぱり嫌だった。私はしゅんとして「かなぶん」の足から国旗をはがしてやった。失敗して足の一本が取れてしまった。
「ああああ、かわいそうに」
母親はますます目を吊り上げた。窓枠に「かなぶん」を置いても、いつまでたっても逃げずにのそのそと歩いていた。
この遊びは母親に見つかるととても怒られるので、このとき以来していないような顔をしていた。しかしあおむけになった「かなぶん」が激しく国旗を振る姿がどうしても忘れられない。そして弟とふたりして、母親にばれないように、
「くくく」
と笑いながら、夏が来るたびに何度も新しく我が家にやってくる「かなぶん」をいたぶってしまったのである。