うちの大家さんの犬が、今年のはじめから二匹になった。大家さんに会うたびに、
「二匹で吠えるからうるさいでしょう」
と気をつかってもらうのだが、私の場合、子供の声よりも、犬や猫の鳴き声のほうが苦にならない質《たち》なので何とも思わない。それよりも住人以外の人がやってくると、いちはやくそれを察知して吠えてくれるので、防犯上とてもありがたいと感謝しているくらいなのである。
前からいる柴犬の名はクリちゃんという。小柄なメスである。クリちゃんは女性ながら、番犬として忠実に任務をこなしている。ふつう、顔見知りになると愛想をふりまくものだが、彼女は飼い主以外の人にはなつかないようなのだ。吠え方は控え目にはなるが、
「顔は知っているけれど、この人もいざとなったら何をしでかすかわからない」
というふうに、尻尾は絶対に振ってくれない。だから、宅配便の人やセールスマンに対する吠え方など並ではなく、気の弱い人だったらば、目に涙がにじんでしまうくらいすさまじい。しかし番犬としたら、これ以上の犬はいないというくらい、忠誠心が強い犬なのである。
昨年、大家さんはそのほかに、家の中で子猫を飼っていた。生まれてまもないかわいい猫で、子供を生んだことがないクリは、その猫をとてもかわいがり、体をなめてやったり鼻先であやしたりして、まるで親子のようだった。ところが子猫は突然病に倒れてしまった。大家さん一家が交替で、猫の介抱をしていると、クリが心配そうに、外から室内を覗きこんでいることも、たびたびあったという。ところが一か月間の介抱も実らず、子猫は亡くなってしまった。大家さんももちろん落胆したが、それにもまして落胆したのがクリだった。自分がかわいがっていた、小さなかわいい生き物が亡くなってしまって、みるまにしょげかえってしまい、肩を落として食欲がなくなってしまったのだ。
クリと自分たちのために、大家さんは地区の保健所が主催した、「犬、猫の里親捜し」というイベントに行ってみた。これは薬殺される運命にある犬、猫を公開して、里親を見つけてあげようというもので、年に何回か行われているものである。ところが行ってはみたものの、猫はすべて里親が引き取ってしまったあとで、檻の中はもぬけのから。拍子抜けした大家さんが、帰ろうとしたら、犬の檻の中に一匹だけ、誰も引き取り手がないまま、ぼーっとしている犬がいた。子犬というよりもすでに成長した成犬のようにみえた。
「これだけ残っちゃったんですよ。生まれてまだ一か月半のメスなんですけどねえ」
係の人が寄ってきて説明した。その犬が一か月半に見えないくらい大きかったのは、シェパードの血をひいているせいだった。里親の心情としたら、やはりむくむくとした子犬をもらって育てたいものだ。大柄なその犬は中身が子供でも、みかけのでかさで敬遠されてしまったらしいのである。猫を捜しにきた大家さんは迷った。用はないのでさっさと帰ってこようと思えばこれたのだが、自分がこの犬を引き取らないと、薬殺されてしまう。そう考えたら、猫だの犬だのといってはいられなくなり、子猫のかわりにその体のでっかい犬を連れて帰った。その姿を見て驚いたのはクリである。出がけに、
「クリのおともだちを見つけてくるね」
といわれたので、楽しみにしていたのに、やってきたのは自分の体よりもでかい、若い犬だったからである。
ムクと名付けられた後釜《あとがま》の犬は不安だったのか、環境に慣れるまで、むやみやたらと吠えていた。あるとき、私が何気なく大家さんの庭を覗いたら、ムクが天を仰いで吠え続けていた。その傍でクリは、きちんとお座りしながら、
「困ったもんだ」
というような顔で、ムクを眺めていた。そして斜め下をむいたかと思うと、はーっとため息をついたので、私は笑ってしまった。
クリは大家さんから、
「見慣れない人が来たら吠えなさい」
といわれていた。彼女はそれを忠実に守ってきた。ところがムクは人が来ようが来まいが、そんなことは関係なく、ただ吠えているだけである。
「あーあ、嫌になっちゃうなあ……」
クリのぼやきが聞こえてきそうであった。
ムクはシェパードの血筋が成長するにつれて顕著に現れてきて、ますます体がでかくなっていった。それにつれて自信もでてきたのか、態度もだんだんでかくなり、腹の底から声を出して、人々を圧倒するようになった。しかし様子を見ていると、不審者だと警戒して吠えているのではなく、どうも遊んでもらいたいがために、吠えているようなのである。それが証拠に、どんな人がやってきても吠えてはいるものの、ちぎれんばかりに尻尾を振っている。体がでかいし声も大きいし、後ろ足ですぐ立ち上がるから、みんなとびかかられそうな気がしてビビる。しかし尻尾は人間に対して、親愛の情を示しているのだった。最近、ムクの姿しか見かけないので、どうしたのかと大家さんにたずねたら、
「ムクはどんどん大きくなっていくけど、クリは歳をとっていくでしょう。だからいじけちゃってねえ。このごろはずっと縁の下で生活してるの。そして自分のことが私たちの話題になっているか、じっと聞いているみたいなのよね」
といっていた。大家さんが縁の下を覗きこむと、彼女ははいつくばったまま、尻尾を振っている。御飯になるとのそのそ出てきて、終わるとまた縁の下に戻るという生活を送っている。ところが自分の任務は忘れていない。人が来ると、さっと縁の下から飛び出してきて、わんわんと吠える。ムクみたいに絶対に尻尾なんか振らない。
「さっさと出ていけ」
というような吠え方である。そしてそれが一段落つくと、またのそのそと縁の下に戻る。若い者に仕事を奪われそうになっても、がんばっている。毎日、ムクの声と共に、クリの少しかすれた声が聞こえてくる。「犬の老人問題」ならぬ「老犬問題」もなかなか大変だと、鳴き声を聞きながら思うのである。