十五年くらい前、私が実家で弟と母親と、台所のテーブルでチャーハンを食べていたときのことである。もぐもぐと口を動かしながらふとテーブルの上を見ると、私の目の前を御飯粒が移動していく。何だろうともう一度よく見たら、それは誰かがこぼしたチャーハンの御飯一粒を、小さな蟻がかついで、テーブルの上を歩いているところだった。私は弟と母親に、
「ほれ」
と目の前を歩いている蟻をスプーンで指し示した。
「あら、まあ、御苦労さんだこと。お土産に炒《い》り卵でもあげようかしら」
母親は自分の皿から、炒り卵の小さな固まりをすくって、蟻の目の前に置いた。すると蟻は御飯粒をかついだまま、卵にも興味を示し、なんとなくこれも持っていきたそうな素振りであった。
「じゃあ、僕は玉葱《たまねぎ》をやろう」
今度は弟が自分の皿から、みじん切りになった玉葱を供出した。
「やっぱりチャーハンの具を、ひととおりあげたほうがいいんじゃないの」
という母親の提案で、私たちは人参だのじゃこだの、チャーハンの具を少しずつ取り出し、働き者の蟻さんにあげたのであった。ところが最初は、目の前のチャーハンの具に興味を示していた蟻ではあったが、周囲を見渡して自分がどういう場所にいたか、やっと気がついたらしい。今までかついでいた御飯粒まで放り投げて、すさまじい勢いで逃げていった。私たちは、
「あらあら」
と、必死になって走り去る蟻の後ろ姿を見送っていた。
「蟻さーん、忘れものですよ」
という母親の声に振り返ることもなく、蟻はいずこともなく、姿を消してしまったのであった。
土が少なくなって、蟻ともあまり交流がなくなってきたが、ついこの間、久々に蟻が私の部屋に姿を現した。かつて実家に現れた蟻は方向音痴で、単独で迷いこんできたと思われるが、だいたい蟻は集団でうごめいている。仕事をしなければと机にむかったら、一面に小さくて黒い蟻がわさわさと歩いていたのだが、やはりこういう光景にはギョッとするものがあった。私の部屋はアパートの二階にあり、風を通すために窓はいっぱいに開け放していたものの、網戸はちゃんと閉めていた。どうも外壁をつたって、網戸の小さな隙間から入りこんできたらしいのだ。
私は息で蟻を吹きとばし、本を置くスペースを作ろうとした。ところが敵は、はいつくばって私の息攻撃から身をかわし、机にへばりついている。机の上に手を置けば、すかさずよじのぼってくるし、それを払い落としたら、今度は爪先から足の付け根にむかって這い上がってくるわで、いらいらしてたまらない。しかしここでシューッと虫よけスプレーで蟻を全滅させられないのが、我ながら困ったところだ。うちから出ていってくれればいいので、彼らの全滅は望んでいないからである。スーパーマーケットに行って、蟻を退散させるようなものはないかと探しても、どれもこれも「蟻殺し」ばかりであった。なかには餌だと思って巣に持って帰ると、巣の中で毒に変わって蟻を全滅させる、蟻にしてみればとんでもない代物まで売られていた。そこに私の求めているものはなく、仕方なく私は手ぶらで帰ってきたのだった。
ぎょっとする数の蟻に机を占領された私は、蟻対策に頭をめぐらした。まず考えたのは、甘い物でつる方法である。飴や砂糖をアパートの外壁にガムテープで貼りつけて、そこに蟻をひきつけようと思ったが、家の中の蟻だけではなく、外を歩いている蟻までが外壁を上ってきたら、大事になるので、これはやめにした。次に頭に浮かんだのは、以前、奥さん向け雑誌に載っていた、
「瓶に輪ゴムをはめておくと、蟻が瓶に上ってこない」
という投書である。私は試しに輪ゴムを机の上に置いてみた。するとどういうわけか蟻の大多数が、わらわらと輪ゴムの周囲に集まってくるではないか。蟻は輪ゴムが苦手なのではなく、どうも好きらしい。むしゃぶりつくもの、動かそうとするものなど、ともかく輪ゴムに対して、異常なくらい興味を示したのである。
「このまま蟻が、輪ゴムに集まってくれたら、追い出すのも簡単かもしれない」
そう期待したのだが、全部の蟻が輪ゴムに集まることはなく、残りの少数の蟻はうろうろと机の上をさまよっているのであった。
会社にも総務部、広報部、営業部があるように、蟻の社会にも分担があり、全部が全部輪ゴム担当になるわけにはいかないのだろうが、お菓子の屑《くず》、甘い物などない私の部屋では、他の蟻たちも戦利品が見つからずに難儀しているようであった。何もないことがわかったのなら、さっさと帰ればいいのに、彼らは五日続けてやってきた。五日も通えば何もないのが十分わかるはずなのに、それでも何かを求めて、せわしなく机の上を歩きまわっている。ふと見ると、なかには輪ゴムにくらいついたまま、息絶えている蟻までいた。無意味な殉職であった。
本、原稿用紙、ボールペン、サインペンの上をしつこく歩きまわっていた蟻であったが、一週間ほどしたら、ふっと姿を消した。あれだけいたのが嘘のように、消え失せてしまった。相変わらず窓は開け放していたのに、一匹の姿も見えない。うちには戦利品がないので見限ったのは理解できるが、この割り切りのよさには驚くものがあった。興味のある対象にはさぐりをいれ続け、自分たちに利益がないと見るや、さっさと手を引いてしまうなんて、やはり会社組織のようである。蟻は突然、団体で姿を現したかと思うと、これまた突然、一斉に姿を消してしまう、不思議な生き物である。きっと蟻同士が相談して、
「そろそろ、ひきあげよう」
という相談がまとまったのだろうが、あの黒くて小さくて頑丈な蟻の思考回路はいったいどうなっているのか、怠け者の私には知るよしもないのであった。