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撫で肩ときどき怒り肩66

时间: 2020-02-09    进入日语论坛
核心提示:制服の処女いずこ 昭和三十年代の道徳の授業をうけた私はだんだん頭に血がのぼり、コトに励んでいる二人の間に割って入り、頭の
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制服の処女いずこ
 昭和三十年代の道徳の授業をうけた私はだんだん頭に血がのぼり、コトに励んでいる二人の間に割って入り、頭の一つや二つ、ブッ叩いて「とっとと家に帰れ!」とどなりたくなったが、その勇気もなく、ブツクサいいながら家に帰った。もちろん私が高校生のときにも、男女関係が発展している子たちもいたが、制服を着ているときは、恥ずかしいというささやかな恥じらいがあった。現在では制服というのは大人が思っているほど大した意味を持っていないようである。
ところが現実はもっともっと大事《おおごと》になっていた。NHK特集「少女たちの産婦人科診察室・10代の性のカルテ」を観て、私はうーんとうならざるをえなかった。今や高校生ではなく、中学生にまで性の乱れが及んでいるのであった。
OL、人妻の性の乱れというのならば、まだわかるが、その中に中学生や高校生がまじってしまう、というのでは、お話にもならない。
番組では、広島のある病院の産婦人科の診察室に来た人々の一部を映していたが、その中に妊娠している中学一年生十三歳の女の子がいた。もちろん顔も声も画面には出ず、ただ婦人科医の声が耳に入ってくるだけだが、性的に無知なようすで、問診した女医さんも「こんなネンネでも、やることはやっちゃう」と嘆いていた。私にはそこのところが理解できないのである。
私が十三歳のころにも、あこがれのスターや同じクラスのサッカーの上手な男の子と結婚できたらいいなあ、と思ったこともあった。結婚の深い意味も知らず、バラの花にかこまれて、幸せいっぱい夢いっぱいという、少女マンガの世界に包まれる、ぐらいの感覚しかなかったのである。だいたいが、自殺とか下半身関係のことは、「あれは大人がするもので、子供の私たちがやることではない」と思っていたのである。恐いもの見たさで、「あれはいったいどんなものなのか」という興味はあったけれど、頭の中であれこれ思いをめぐらすだけで、結局は眠くなって寝てしまうのがオチだった。
ところが、今の子は少女マンガをとびこえて、すぐ劇画の世界へととびこんでしまうようであった。
その十三歳の女の子の相手は同じ中学の男の子であった。一月十一日からつき合って、一月十五日にニャンニャンしてしまうといった早技である。校庭を走りまわったり、ボンボンとびはねたり、他にもすることは山ほどあるはず。若いみそらで、いくつになってもできることをやらなくてもいいのに、と思うのは、そういう�新人類�についていけなくなった証拠なのかもしれない。子供たちは本能のおもむくままにニャンニャンし、それを知った親はオロオロし、ではこのまま泥沼化するばかりである。きちんと、オシベとメシベではない性教育をすれば十代の妊娠が防げるかといえば疑問だし、さりとて毎日鋼鉄のパンツをはかせるわけにもいかない。私は無責任だが、正直いって親でなくてよかったと、ホッとしたのであった。
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