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聖岩 Holy Rock04

时间: 2020-02-21    进入日语论坛
核心提示:塩塊 秘蔵物というほどの物ではないが、常に自分の部屋の身近な場所に置いてある愛蔵物が、私には三つあった。聖地ベナレスの路
(单词翻译:双击或拖选)
塩塊

 秘蔵物というほどの物ではないが、常に自分の部屋の身近な場所に置いてある愛蔵物が、私には三つあった。聖地ベナレスの路傍で売っていた薬の小ビンに掬ってきたガンジス河の水、写真のフィルムケースに詰めてきた中国奥地タクラマカン砂漠の砂、山東省の黄河の岸でビニールの小袋に入れてきた粉末状の黄土。いずれも美術・工芸・文物の類ではなく、大きな自然の一部を自分の手で小さな容器に詰めてきた元素的物質。
それらを眺めながら、年中ほとんど日ざしが入ることのない半地下風の小部屋の中で、世界の広大さとその営みの無限を想ってきた。
ところが数年前、あるトラブルで黄土を入れておいた薄いガラス製のシャーレが壊れ黄白色の粉末が床に四散して以来、三つの愛蔵物は二つになってしまった。
(自分でもよくわからないが、二という数は終ることない自己分裂を想像させて落ち着かない。私にとって基本の数は三でなければならない)
数日前、思いがけなく新しい第三の元素的物質が、私の部屋に現れた。ただしそれは自分の手で採取してきた物ではない。透明な容器にも入っていない。差渡し四センチ余りの剥き出しの固体。塩化ナトリウムを主成分とする純白の結晶物、つまり天然の塩の塊。
それは北米大陸、アメリカ合衆国西部ユタ州の大塩湖グレートソルトレークから来た。正しくはその湖岸の州都ソルトレークシティから来た人から贈られた。それまでは名前さえ知らなかった人、ある催しに共に出席して出会った人物。再び会うことはないだろう。
 雨催いの春の朝、電車を二度乗り換えてモノレールで羽田空港に行った。金沢市で開かれる「自然と文学」というシンポジウムに出席するためである。
空港ロビーで、シンポジウムの企画者から初めてその人を紹介された。
「アメリカで最も注目されている新しいネイチャーライティングの作家テリー・テンペスト・ウィリアムスさん」
「Nice to meet you」
とだけ私は言った。もともと私は英語の会話能力が貧しいうえに、ここ何年も英語をしゃべることがなかった。緊張し気が重かった。握手もしなかったし、顔もよく見なかった。服装も化粧もラフで自然で、声も態度も控えめで落ち着いた大柄な女性、という印象を受けた。四十代前半ぐらいの年齢だろう。
機会は幾度もあったけれど、私はアメリカに行ったことがない。ベトナム戦争当時サイゴンで多くのアメリカ人特派員たちと一緒だった。女性記者たちも知っていた。彼女たちはいつもタフでアクティヴだった。その遠い記憶の印象と目前の女性作家のそれとは重ならない。ちらとだけ視線の合った深い眼窩の奥の淡色の目は、遠く煙っているように見えた。
シンポジウムでの参考のためにと思って、英訳された私の短篇小説のコピーを持参していた。それを渡すと素直に喜んだ。彼女には、彼女の新作長篇作品を翻訳出版する日本の出版社の担当者が同行していて、その翻訳ゲラ刷りの冒頭部分を貸してくれた。
旅客機内の彼女の座席がちょうど私の前だった。小松空港までほぼ一時間、私は彼女の長篇の冒頭部を日本語で読み、彼女は私の短篇小説を英語で読んでいた。座席の背の上に、白いものがまじった暗褐色の、俯いた彼女の頭髪があった。髪は後頭部で無造作に束ねられていた。
「ネイチャーライティング」は、ヘンリー・ソローの「森の生活」(一八五四)に始まる、自然を舞台としたアメリカ独特の文学ジャンル。私はその流れにとくに関心をもつ者ではないが、近年に感性・思想・文学の新しい領域として、急速にすぐれた作家を生み広い読者層を獲得し始めていることを、知っていた。
だが単に秘境探険や野生生物観察の記録だけではないようだ。「私がこの物語を語るのは、私自身を癒すため、未知と対決するため」と、ウィリアムスさんも長篇のプロローグで書いている。この時代の不安な魂の震えが文章の芯にあった。
グレートソルトレークの水位が異常に上昇して脅かされる渡り鳥たちの描写と、筆者自身らしい「私」の家族の不幸な出来事の記憶とが重なり合って書き進められてゆくのだが、「私」の母は腫瘍を発見されて精密検査の直前、グランドキャニオンヘコロラド川の川下りに行った。
「時聞が必要だったのよ。そのことを受け入れて、そのことを考えてみる時間が」
と母は「私」に言う。
すぐ前の座席で彼女が読んでいる私の短篇小説も、私が五年近く前にガン手術の直前、東京都西部、奥多摩渓谷の谷川まで行った体験を、そこでの幻想も含めて書いたものだ。私も驚いたが、伎女も驚いただろう。グランドキャニオンの壮絶さはないとしても、真夏の夕暮の奥多摩渓谷を、崖を埋める木々の濃い緑を、その中で狂おしく鳴き続けるセミの声を、つまり死の恐怖に照らし出されて異様に輝く自然を、私は綿密に書いたのだったから。
彼女がユタ州ソルトレークシティの生まれ育ちで現在もそこに庄んでいることを、私は予め企画の担当者から聞いていた。その都市には壮麗なモルモン教の大本山があり、彼女一族もその教徒のはずなのに、腫瘍の精密検査の前にわざわざグランドキャニオンまで出かけた母親を書くアメリカの作家が、いま私の五十センチ前にいる。
私が生涯アメリカを訪れず英会話を本気で習わなかったのは、敗戦直後、物質的にも精神的にも何もなかった焼け跡の学生時代に、自信にみちて街を行くバラ色の頬※[#底本では「來+頁」、第3水準1-93-90]の「進駐軍」兵士たちが、余りに何もかも持っているようにひたすら眩しかったことへの、屈折したこだわりのせいに違いない。
だがベトナム戦争の後半の頃から、前線に飛ぶ輸送機の中で暗く沈みこんでいる若い米軍兵士たちの沈黙には、惻々と心に迫るものがあった。ウッドストックの荒野に集まった何十万という|跣《はだし》に近い若者たちの魂の飢えを記録した映画には、ローマ帝国時代の聖書の民たちの集りを想像したものだ。
そしていま彼らの少なくとも一部は、聖書の神話さえも越えて、より根源的なもの——自然の声を聴こうとし始めている。ニューヨークでもシカゴでもサンフランシスコでもなく西部の大塩湖の岸から来たアメリカ人の作家が、文字通り身近だった。
 小松空港から金沢駅前の高層ホテルに入る。昼食のため階下の日本料理店に集まる。ウィリアムスさんと席が隣になった。
スシにもテンプラにも彼女は大仰に興味をみせたりはしなかった。いつのまにかトランクから取り出してきたらしい自分の短篇集の扉に、長い献辞を書いて渡してくれた。眼鏡を掛けて、達筆の英文をかろうじて判読した。
「深い敬意をこめてこの本を贈る。私たちが共に抱くこの大地への|深い愛《アフェクション》のしるしとして」
だけど私が夕暮の谷川の水際に坐りこんだりしたのは、目前の死の恐怖に怯えたからで、普段は川べりなどにわざわざ出かけたりはしないし、大地と自然への私の感情はaffectionというほど一途なものではなく、もっと入り組んで両義的でさえあって、不気味で恐ろしいと思う方が多い——と言おうとしたのだが、そんな屈折した心情を英語で言うことはできない。
「川はふしぎです。その激しい流れの音に聴き入っているうちに、川がまるで自分の中を大きく流れるように思われてきて、恐怖する自分が薄れていった。あなたのお母さんもそうだったと思う」
とだけ幾度も|支《つか》えながら言った。
「精密検査の結果は悪性だったけど、コロラド川を下りながらすべてを受け入れられる気持ちになった、と母は幾度も言ってました」
と彼女は感傷的でなく答えた。
それから他の人たちが話しかけてきて、ふたりだけの話は途切れたが、アメリカ文学界の中でのネイチャーライティングの位置のようなことを誰かが質問したあとだったと思う(彼女の答えを私は聞いていなかった)、いきなり私に彼女は呟くように言った。
「Sometimes 孤独な思いをすることがある」
文学界の中での自分の仕事のことだろうと思ったので、私は少し意地悪く答えた。
「Always 私は孤独だと思っている」
そう言ってから、彼女がlonelyと言ったのは、文学界の中でのことではなく、この世界の中での思いだったのではないか、とも思った。ただこのしっかりと落ち着いた女性が、出会ったばかりの私にそんな思いを洩らすのはそぐわない気がしたし、茫漠と煙ったようにしか見えないその目の奥には、西部の大平原の深い憂愁の思いが沈みこんでいるようにも感じられた。
私は膝の上で、彼女の短篇集の扉を開いて、眼鏡をはずしたまま献辞の英文を眺め直した。
affectionという単語がafflictionというようにも見えた。afflictionは確か苦悩というような意味の言葉だ。
 部屋に上がるとタ刊が配られていた。一面トップの特大の大見出し——「警察庁長官、狙撃されて重傷」
私が異例に早起きして家を出た頃に起きたことらしい。日中テレビは見ないので、事件の発生はたいてい新聞を読むまで知らない。一月の神戸の大地震も。十日前の地下鉄毒ガス事件も。
二十四階の部屋の広い窓から、曇り空の下の金沢市街が見えた。金沢市を訪れるのは三回目か四回目だが、来るたびに鉄筋コンクリートのビルとモルタル塗装の建物が増えている。街が固く白っぽくなってゆく。東京もそうだ。高い所から見下ろすと、海浜に曳き上げられた船の底に密着したフジツボなどの貝殻の群を連想する。
灰白色の固く尖った現代都市が、さわればザクリと切れるような、その不気味な鉱物質の正体を急に|顕《あらわ》にし始めたように思った。都市はもはや楽しく華やかな|保護区《リフュージ》ではない。「Refuge」は機内で一部を読んだウィリアムスさんの長篇のタイトルである。
夕方ホテルの別室で、ネイチャーライティングに専門的な興味をもつ、日本各地から来た英文学者たちと話をすることになっているが、まだ少し時間がある。窓際の肘掛け椅子に腰をおろして、貰ったばかりの彼女の短篇集の最初の一篇を読んだ。
筆者らしい「私」が東アフリカの有名な野生動物棲息地セレンゲティ国立公園を、マサイ族のガイドとともに歩きまわる体験を書いたものだ。センテンスの短い、乾いて、陰影もある詩的な文章である。「私」は野生動物たちの姿と行動に驚き感動し、同時に動物たちの習性や風のにおいや草の動きなどと神秘的な交感能力をもつマサイ族のガイドに、畏敬の念を抱く。
読みながら思い出した。私がいまシンポジウムに参加したりすることができるのも、実はアフリカのお蔭だったことに。五年前の春、春機発動した若者のように、急に東アフリカのサバンナに行きたいという圧さえ難い全身的欲求に駆られた。出版社で初めて前借りをして予防注射も受け、念のため健康診断をしてもらったところ、何の自覚症状もなかった内臓の腫瘍を発見されたのだった。旅行はキャンセル。精密検査を受けると、発見がもう一、二か月遅れていたら、ガンウイルスは間違いなく全身にまわっていただろうと言われた。
時期は同じではないかもしれないが、彼女が私に代って、あるいは実現できなかった夢の中の私自身として、サバンナを歩きまわっているような奇妙な現実感を覚えながら、時間を忘れて彼女の短篇を読んだ。
「テントへと歩いて戻りながら、私は立ちどまって南十字星を仰ぎ見た。それは私の新しい星座だ。草の茂みに脆いて、その葉をしっかりと握った」
という文章でその短篇は終る。
私も入院前の最も不安だった時期、東京世田谷の自宅近くの空地に茂る雑草の柔い茎を、セイタカアワダチソウのざらついた葉を、有刺鉄線の柵越しに握り締めていたことが幾度もある。
 その夜、ホテルの最上階の小ホールで、シンポジウムの前夜祭的なパーティーが催された。
ウィリアムスさんはさっぱりした服に着換えていたが、派手ではなかった。少し興奮していた。午後案内されて海岸まで行ったという。日本海の海の色が素晴らしかったと繰り返して言った。
少し海の色の話をしたあと、あなたはセレンゲティの草を握ったが、私は東京の雑草を幾度も握ったことがある、と私は言った。
「本当に!」と彼女は驚いた。
「私の体の細胞と草の細胞が直援に話をした」
と私が言うと、「どんな話を」と本気に尋ね返す。
「この危険にみちた世界を生きてゆくのはとても|きつい《シヴィアー》なことだが、お互いに元気を出して——と彼らは話し合っていた」
私も本気で答えた。空地に沿った道を歩きながら、直射日光の下で逞しく伸び茂っている雑草の傍に私は無意識のうちに立ちどまり、そして手がひとりでに有刺鉄線の間をくぐり抜けて、葉を撫で茎を握っていたのだった。私は腰を屈めて動かなかった。真昼の光の中で知覚だけが極度に澄んで、触覚が本当に声として聞こえた。
「そうです。本当に草はそう言います。あなたも草の言葉がわかるんですね」
彼女は呼吸を弾ませて言った。
非現実的なほどふしぎな気持ちだ。今朝まで全く未知だったアメリカの作家と、直接に言葉は通じ難いのに、草についてはこれだけ心が通じるということは。お互いに書いたものを読んだ、ということもある。だか歴史と文化の違いを超えて、性差も超えて、いま共通し合えるものが、意識の地平の下に現れ始めている。
本来の畏るべき自然(古代のギリシャ人たちはそれを「フュシス」と呼んだ)——最も基本的で最も普遍的なもの、最も直接的で無限の奥行と広がりを秘めたもの。文明の、文化の、それぞれの肉体の崩壊の予感の中から、おのずから姿を現すもの。
 パーティー後の二次会を断って部屋に戻る。早起きして、電車とモノレールと飛行機を乗り継いで、馴れない英語を話して、それ以上に思いがけなく心を開いて、私は疲れていた。
普段は夜更けの三時四時になっても神経が冴えて催眠薬なしには寝付けないのに、午後十時に室内のテレビで警察庁長官狙撃と地下鉄毒ガス事件の大がかりな捜査のニュースを見ながら、眠りこみ始める。
大きく何かが壊れてゆく、という感覚が体の中をゆっくりと過ぎた。
 シンポジウムは翌日午後一時半から、市内の文化会館で行われた。
三十分前に私たちは控え室に集まった。基調講演をするウィリアムスさん、司会役の環境問題専門の新聞記者、パネリストの私と英文学者ふたりと、その他主催者側の人たちである。
ウィリアムスさんは枯れかけた|蓬《よもぎ》の葉に似た、褐色のまじった暗緑色のゆったりと裾長の服を着て、落ち着いて見えた。中世の修道士たちが着ていた服のようだ。
「リラックスしてますね」
と声をかけると、真剣に首を振った。
「ナーヴァスになってます、とても」
だがいよいよ開会して最初に演壇に立った彼女は堂々としていた。少しハスキーな低目の声で静かにしゃべり始めた。私は同時通訳の日本語を聞いていたのだが、実は基調講演の前半に彼女が語ったことの内容をほとんど記憶していない。
講演の後半三十分、彼女は自作の朗読を始めた。私が冒頭だけを読んだ長篇『Refuge』(日本語訳タイトル『鳥と砂漠と湖と』)の最終章である。その最終章の印象が、前半のスピーチの記憶を消すほど強烈だったのだ。
欧米の作家たちがしばしば公的な場で自作を朗読することは知っていたが、実際に見て聞くのは初めてだった。彼女は両手で著書を顔の前まで持ち上げて、少なくとも一年以上前に書いたはずの自分の文章を、まるでいま現に書き進めているように次第に熱っぽく、だが的確に読んだ。大柄なその姿が壇上でさらに大きくなってゆくように見えた。中世の僧服のようだと感じた独得の長衣が、いっそうよく似合った。
彼女は読んだ——「私」は百四十年来ユタ州に住み続けてきたモルモン教徒の家系の者である。ここでは慎ましさがとくに女性に要求されてきた。だが母と祖母ふたりと叔母六人が乳ガンの手術を受け、「私」自身も二回乳房の組織検査で悪性すれすれと診断されたとき、「私」は慎ましさを捨てた。「私」は「片胸の女たちの一族」に属している。
それは遺伝ではなかった。かつて血筋の女性にガンで死んだものはいなかった。一族の女性たちが次々と乳房を切除されて死んだのは、ユタ州の西隣に広がるネバダ州の砂漠で、核兵器の地上爆発実験が一九五〇年代初めから十余年間もあいついで行われたあとだ、と気付いたからだった。
ここで私は私の好きなロサンゼルス出身の写真家リチャード・ミズラックの写真集を思い出していた。初期には砂漠の風紋や夜明けのストーンヘンジや月明のギリシア神殿などを幻想的に撮っていたミズラックが、八十年代半ばからネバダの砂漠を撮り始める。実験場上空を覆う黒雲、爆撃演習場の大穴に溜った赤っぽい水、砂の上に無造作に転がった爆弾、砂漠の窪みに累々と積み重なった牛や羊たちの死骸など。
犯された自然の繊細で不吉な映像。
「片胸の女たち」という鮮烈な言葉。
それらが重なり溶け合って、その後の彼女の朗読を、文章としてより濃密なイメージのうごめきとして私は聞いた。
彼女は読んだ——ある夜、「私」は世界中から来た女たちが、砂漠で赤々と燃える火を囲んで狂ったように踊る夢をみた。インディアンの老女から教わった歌を、彼女たちは歌った。
ア ネ ナ ナ
ニン ナ ナ
ナガ ムチ
オ ネ ネイ
(ウサギのことを思ってごらん
どんなに静かに地面を歩くか
覚えておこうよ
こっちも静かに歩けるように)
それから女たちは鉄条網のフェンスをすり抜けて、実験場の汚染地域へと行進した。砂漠を蘇らせるために。
(ミズラックの写真の中を、幻想の女たちが行く)
彼女たちは兵士たちに次々と逮捕されたが、新しい行進がさらに実験場へと入りこんだ。同じ歌を歌いながら。
ア ネ ナ ナ
ニン ナ ナ
ナガ ムチ
オ ネ ネイ
(いつの間にか、夢の女たちが、「私」に変っている)
実験場の境界線を越えた「私」たち十人のユタ州の女性は、軍用地不法侵入のかどで逮捕された。地上実験停止の後も、地下で核実験が続いていた。手錠をかけながら警官がブーツの中に匿した紙とペンを見つけた。「これは何?」と警官は言った。「武器です」と「私」は微笑した。
調書をとられてから「私」たちはバスに乗せられ、砂漠の中に置き去りにされた。だが「私」たちは平気だった、塩湖の岸のヤマヨモギの香りを魂の|糧《かて》とする女たちだから。
……………………
背後の拍手の音で、私は濃く大きな恐ろしい夢から覚めた気がした(私は最前列の席にいた)。
彼女はネバダの砂漠ではなく、金沢市のホールの壇上にいた。朗読の終りが講演の終りだった。
だが彼女は拍手とともに壇を降りなかった。いつのまにか左手に枯れかけた草色の紡錘形の物体を握っていた。植物の茎と葉を固く束ねたようなものだった。どこにそんな物を匿し持っていたのだろう。
それから右手に持ったライターで、おもむろにその物体の先端に火をつけた。燻って白い煙があがった。彼女は先端の燻り火を吹きながら悠々と壇を降りて、火のついた枯草の束を最前列の端の聴衆に手渡した。
朗読の最後に出てきた彼女の「魂の糧」——湖岸のヤマヨモギの束だ、とやっと気付いた。順に手渡されてきたヨモギの束は、両手でなければ持っていられないほど太く重かった。燻り続ける束の先端を顔に近づけると、少し甘くていがらっぽく、したたかに乾いたきつい香りがにおった。
 ウィリアムスさんの熱意の余韻で、続くパネルディスカッションも、予定時間を越えて活発に行われた。私もパネリストのひとりとして幾度も発言したが、何をしゃべったかぼんやりとしか覚えていない。
再び私たちは控え室に集まった。私はここから直接空港に向かって、羽田行きの最終便に乗ることになっている。ウィリアムスさんたちは金沢にもう一泊ののち、京都、広島をまわって帰国するそうだ。消防署が知ったら目を剥くにちがいないパフォーマンスのあととは思えないほど、彼女は平静だった。
放射能を帯びた砂漠を大股に歩いてゆく彼女の後姿が見えた。インディアン風のバンダナで髪を縛って、蓬の色の厚地の長衣を着て、革のブーツの中には彼女の「武器」を匿し持って。年齢にしては多過ぎるように思われる髪の白いものは、危険な砂漠の風に吹き晒されたためかもしれない。
「わずかの時間でしたが、多くのことをあなたに教えられた。ありがとう」
と私は言った。英語が少し滑らかに口に出るようになっていた。
「幾つものことを共通して考えていることがわかって、とてもうれしかった。これから書いてゆく力が湧きました」
彼女の口調も表情も率直だった。ディスカッションの時間がのびたため、私は急いで空港に向かわねばならなかった。
「危険にみちたこの世界を生きてゆくのはとてもシヴィアーなことだけど、お互い元気で」
と立ち上がって私は別れの挨拶をした、草の言葉で。
彼女もわかって微笑した。自然ないい笑顔だった。その笑顔のまま、彼女はゴツゴツした白い塊を掌にのせて差し出した。
「私の故郷の塩」
とだけ言った。
もう何年も前、オーストラリア大陸の中央大平原で、トルコのアナトリア高原で、一面に干上がった、あるいは岸に沿って塩分が盛り上がって析出した内陸塩湖を見たことがある。茶褐色の広大な地面の一部が純白と化して日ざしにきらめき渡っていた光景は、目の奥がしんと静まり返るように神秘的だった。
それにしてもいつの間に彼女は、こんな物を持ってきていたのだろう。壇上でヤマヨモギの束をいきなり取り出したときそっくりの、ふしぎな仕草だった。この|女《ひと》はいろんな妙なものを匿し持っている。
ズシリという程ではないが手応えのある重さの塩塊が、掌から掌に渡されて、私たちは別れた。
 東京の深夜。
アメリカの西部から来た塩塊が、蛍光スタンドの光に照らされて、私の机の上にある。
眼鏡をかけて顔を近づけると、水晶に似た正六面体の塩の結晶体が静かに光っている。大地から滲み出て、太陽の熱で固まった本物の自然物の威厳。
手に取って舌の先で舐めてみた。塩辛さより苦味を感じた。少し暗く奥深い複雑な苦味。乾いた光の味もした。ネバダからの放射性粒子の味かもしれない。
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