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聖岩 Holy Rock06

时间: 2020-02-21    进入日语论坛
核心提示:幻影と記号 四十代の後半、このまま五十歳になるということが私にはとても耐え難く思われ、理性的には納得し難い恐怖感を覚えた
(单词翻译:双击或拖选)
幻影と記号

 四十代の後半、このまま五十歳になるということが私にはとても耐え難く思われ、理性的には納得し難い恐怖感を覚えた一時期がある。できるだけ外に出るのを避けて自分の部屋に閉じこもっていた。
千代田区一番町という都心部の町のマンション二階に住んでいた頃のことだ。まわりは高層鉄筋のマンションとオフィスビル。岩山の谷底の感じなのである。深夜、裏階段からゴミを捨てに地面に降りると、周囲は白いタイル貼りの、赤茶色い煉瓦建ての、あるいは部厚いコンクリート肌の壁がそそり立っていて、その上方はるかな狭い夜空に、星が二つか三つだけ見えることがある。
そんな部屋の中で、私は『未来への遺産』といういかめしいタイトルのカラー写真の図版が美しい大版の書物を、しばしば眺めていた。どうしてそんな書物がその昼も薄暗い部屋に現れたのか、いまはもう覚えていないけれど、そこに写し出された数々の古代遺跡の風景に、私は魅入られていた。とりわけ一木一草もない谷間に林立する尖塔状の奇岩と、その内部に洞窟を掘って閉じこもったふしぎな人々に。
トルコ中部アナトリア高原のカッパドキア地方。四世紀頃からキリスト教の修道士や隠者たちがその奇岩の洞窟に住んだ、と写真には説明がついていたが、いまは無人のまま岩に穿たれた洞窟の入口が髄髏の口のようだ。どんな人たちがこの奇怪な岩に棲みつき、不毛そのものの地を生きて死んだのだろう。何を考え、何を祈り、何を待ったのだろう。ヘレニズム世界の崩壊の地鳴りの中で。
夜更けるにつれて、いっそう台風のうつろな目のように不気味に静まり返る東京中心部のコンクリートの谷底で、私は幾夜となく茫々と、濃い思いでそう考えた。
そうして地上の距離と歴史の時間を越えて、自分でもよくわからない強く身近な思いを覚えながら、部厚い鉄筋コンクリートの冷えがしみこんでくる部屋の隅の仄暗がりに、|頭巾《フード》のついた羊毛粗織りの灰色の長衣に身を包んだ男がひっそりと蹲っている気配を感じたのだった。
ある日、勤め先の新聞社の編集局長から、日曜版のフロントページ用に世界の秘境・奇景を訪ねるシリーズの一部を担当するように、といきなり命じられ、私はめまいのような心の揺れを覚えた。直ちにカッパドキアを思い浮かべた。顔の見えないあの灰色の粗末な長衣の修道士風の幻像が呼び寄せたような偶然だった。
 トルコ族はファンタスティックな民族だ。もともと中国北方のモンゴル高原にいた遊牧民で|烏孫《うそん》、|鉄勒《てつろく》、|突厥《とつけつ》などと呼ばれ、十世紀以後、中央アジアから遠く西アジアへとはるばると大移動して、中近東全域に及ぶセルジューク帝国をつくったのち、オスマン帝国として十五世紀に東ローマ帝国を滅ぼし、北アフリカからバルカン半島にまで広がる。そして現在は騒がしい中東地域の一角にひっそりと住んでいる。
文化的にはペルシアの、宗教的にはアラブの影響を強く受けながら、アジアの西端に住むウラル・アルタイ系語族のモンゴロイド。私はそれほど多くの国に行ったわけではないが、トルコほど日本人への親愛の情を感じた国はない。イスタンブールの街頭で「日本人ですか」と身なりのいい紳士が丁重な英語で話しかけてくる。男の客しかいない地方の村の薄暗い茶店でも、私が日本人だとわかるとしきりに紅茶をおごろうとする。遠く離れてきたモンゴロイドの血への郷愁のように。
食域の狭い私も、トルコの料理だけは田舎町の路傍の食堂でも食べられた。見事に血抜きされた柔い羊の肉、赤っぽいが辛くないソースのかかった豆の料理。地方のどこの小ホテルでも決まったような朝食——焼きたてのバゲット風のパン、羊の乳の白チーズ二切れ、それに塩漬けオリーブの黒い実五個。
イスタンブールで、英語がひと通り通じる中年の運転手つきの車をチャーターすると、街の見物もしないで早々に出発した。エーゲ海岸沿いに南下し、伝説の地トロイを経て、古代ギリシア植民地エフェソス(現在のエフェス)に着く。ここは人類哲学史の曙光とされるいわゆる自然哲学者のひとりヘラクレイトスが住んだ地だ。若い頃から『初期ギリシア哲学者断片集』(山本光雄訳篇)という書物を時折拾い読みしながら、最も興味をひかれてきたのが彼だった。
またここには古代地中海世界の七不思議のひとつ、アルテミス女神の大神殿があった。桁はずれにヘンな男がこの町にいて、この大神殿に放火して焼失させれば自分の名前は永遠に歴史に残るだろうと考え、それを実行した。事実、確かエロストラートというその男の名前を私も知っている。
ヘラクレイトスも非凡なヘンな人だったらしい。新しい法律をつくってほしいとエフェソスの人々に求められたが、肩をすくめて断り、アルテミスの神殿の庭で子供たちとサイコロ遊びをしていたという。人々が集まってくると「きみらと一緒に政治に与かるより、こんなことをしている方がよっぽどましだと言った」と残存する断片は伝えている。
また別の断片には、彼が宇宙論、政治論、神学論の三部から成る『自然について』という本を書いてアルテミス神殿に奉納したが、「その力のある人々だけが(その本に)近づくように、わざと不明瞭に書いた」と記され、「彼がある部分を中途半端に、またある部分をごったまぜに書いたのは、憂鬱性のせいだ」という意見もあったことが伝えられている。さらに「彼は誰の弟子にもならなかった。自分自身を探求して、すべてのことを自分自身から学んだ」と記した断片もある。
アルテミス神殿の跡は、いまのエフェスの町から少し離れた街道わきにあった。シミだらけのイオニア式の大理石の柱が一本立っているだけで、倒れてバラバラになった大理石の破片が石畳の上に散乱していたが、ここでヘラクレイトスは子供たちとサイコロ遊びをしていたのだ、と鬱屈した彼の心が二千五百年という時間の隔たりを越えて、いまもその古びた円柱のまわりに漂っているかのように身近だ。「憂鬱性」は決して近代の、世紀末だけの病ではない……。
残存する遺跡から見て、古代エフェソスの市街は広くはない。円形劇場はほぼ原形をとどめているし、大理石の建物の前面も結構残っているし、集会広場を取巻く円柱の列も折れたり欠けたりしながらも連なっている。何よりも往時を偲ばせるのが見事に敷きつめられた白い石畳の街路だ。その石畳の上を私はゆっくりと、幾度も往復した。ヘラクレイトスもこの同じ敷石を踏んだのだ、と呟きながら。
「この世界は、神にせよ人にせよ、誰が作ったものでもない、むしろそれは永遠に生きる火として、決まっただけ燃え、決まっただけ消えながら、常にあったし、あるし、またあるだろう」——この地で、語ったと伝えられているそんな彼の言葉の断片が、私の内部から聞こえ、白衣に革のサンダルをはいた長身白髯の幻影が俯いて遠ざかる。
「人は理性をもって言動しなければならない」と彼が語ったとき、何に対してそう考えたのか、現代のエフェスの町の小さな博物館に、その答えがある。
古代のアルテミス女神の模像がそこにあった。高さ二メートル半ほど、両手を前に差し出した直立の白い大理石像(大神殿に立っていた原像ははるかに巨大だったろう)。端麗な女性の顔が妖しい微笑をたたえ、顔の両側と腹部から脚の正面に、坐りこんだ牛とライオンの小さな浮彫像が何十と隙間なく並び、胸にはざっと数えて実に二十箇余の乳房が突き出ていた。ギリシア神話のアルテミスは山野で狩りをする処女神だが、この像は明らかに原始の大地母神像だ。細部はヘレニズム彫刻の洗練された作りだが、胸一面に並んだ駝鳥の卵を思わせる乳房の群はおぞましい。
さらに近くの丘の、石を積み上げた小さな教会の奥には全身真黒の聖母マリア像があって、いまも花が捧げられていた。聖母マリアが晩年この地で過し、ここから昇天したと伝えられているが、ベールをかぶったこのマリアも濃く大地母神の雰囲気である。
人類最初の理性的思考の地には、白と黒の大地母神像が崇められていた。その長く暗い呪術的伝統と戦いながら、「自分自身を探究する」個人の理性的思考はつくられたのだ、地中海的明噺などと単純に言えるものでは決してない……という思いに沈みながら、この旧ギリシア植民都市の廃墟の地を去る。俯いて石畳の街路を歩く哲人の幻影と、どっしりと立つ白と黒のふたつの大地母神像の異様な印象とが重なり溶け合いまた分かれて、私の心の視野を重く揺れた。
エーゲ海岸地帯を離れて中部高原へと方向を変えて走る道路の両側には、リンゴの木ほどの高さの木が連なり、白い花をつけ始めていた。あのきれいな花は何だろうと聞くと、「アーモンドの花」と運転手は答えた。
 二週間の契約をした運転手は、年齢四十歳、小柄で丸っこい体型、髪は黒く鼻の下にチョビひげ、一見小企業の実業家風の落ち着きのある男で神経質ではない。必要以外に口はきかないが陰気ではない。
その彼が運転しながらふと言った。
「この道路はアレクサンドロス大王の軍隊が通った古い街道だよ」
エーゲ海岸地帯を離れると、いつのまにか道路の両側に山脈が連なっていた。山々の頂には残雪が光っている。道路と山脈との間は、縁色の部分と地肌が黄色く乾いたままの部分とが半々ぐらいの割合で入りまじっている。ところどころに白塗り煉瓦造りの農家があり、まわりに青黒い糸杉が何本も天を指している。煉瓦色のスレート屋根の家屋が集まった小さな町もあり、イスラム寺院の|尖塔《ミナレット》がくっきりと高く白い。今夜は「パムッカレ」と呼ばれる街道筋の奇景の地に泊まる予定にしている。
夕暮近くなってパムッカレが見えてきた。トルコ語でパムックは綿、カレは城の意味という。出発前に旅行案内を調べながらカッパドキアへの途中に立ち寄ろうと計画してきた二番目の場所。街道を挟んで、残雪が光る山並と向かい合うように、反対側の山の中腹の一部が真白に輝いていた。
「綿の城」である。だが車が街道を左に折れて麓の道路を登ってゆくにつれて、それは植物ではなく剥き出しの鉱物の形成物だと、はっきりわかってくる。山の中腹に湧き出す泉の水が崖を流れ落ちながら、多分何万年もかかって石灰分を大量に析出したものだ。ただしそれだけなら世界各地に幾らでもあるだろう。ここが古代世界から有名だったのは、石灰分の白い崖が階段テラス状に、あるいは山畠の段々畠状に、直径二、三メートルほどの半円形の水盤が、高さ約二百メートルにわたって、まるで人手が作ったように順序よく重なり連なっているためである。しかも何百箇とひと目では数え切れない水盤の半円のすべての縁から、石灰分のツララが隙間なく垂れ下がっている。褐色の山腹の一部にだけ忽然と出現したその光景は、華麗に幻想的だった。夕日が水盤のひとつひとつの水面に、無数のツララの一本一本にきらめいていた。
崖の上で車を降りて、夕日の光が下方の水盤からひとつずつ消えてゆくのを、私は声もなく見下ろした。それから山腹の小広い平地に建てられたバンガロー風のモーテルに入った。輪になった部屋の並びが、差渡し三十メートルほどの池を囲んでいる。池からはうっすらと湯気がたっていた。この温泉の湯があの幻想的な白い水盤の崖を析出したのだとわかった。
運転手とふたりで食堂で夕食をとったあと、私はひとりパンツ一枚になって池に入った。まわりのモーテルの部屋の明りのほかに、池の岸にも幾つかの電灯がともっているが、電灯の光は弱く水面は仄暗い。池は深いようだった。私は平泳ぎでゆっくりと水面を泳いだ。他にも白人の観光客が二、三人池に入っていて、ドイツ語らしい話し声が聞こえたが、池は十分に広い。
途中で足を下ろすと、足の裏に固い物がさわった。岩にしては表面がざらついていなくて妙に滑らかだった。どんな岩だろう、と水面の下を覗きこんだ。何かがぼんやりと白く見えた。岩ではなかった。大理石の円柱の一部。円柱が倒れて、幾つもの円筒に分かれたそのひとつだった。
その上に両足をつけ、顔を沈めて水中を見まわした。一面に散乱しあるいは積み重なった大理石の建築物の死骸だった。明らかに神殿風の装飾円柱の部分。浮彫がかすかに見分けられる|破風《はふ》の一部、壁の破片が、黒い水底にひっそりと沈んでいた。
<私は倒壊した神殿の上を泳いでいる>
ふっくらと円く滑らかな大理石の柱は、仄暗くなま暖かい水中で、異様になまめかしい。まるで女神像の一部のようにさえ感じられる。
<私は水死した女神の散乱する死体の上を漂っている>
<img src="img/Artemis.jpg">
気味悪く涜※[#底本では「さんずい+賣」、第3水準1-87-29→78互換包摂 涜]神的で、ひきこまれるように甘美で、その甘美さがさらに気味悪い。ドイツ人の観光客たちは出ていったようで、温泉池の中は、いつのまにか私ひとりになっていた。池の岸近くの消えた部屋のどれかから、不意に泊り客らしい女性の甲高い声が水面を震わせるようにひびいて、また山腹の夜の静寂に戻る。何時間か前に見たばかりの二十の乳房をもつ女神像の、瞼を開いていながら瞳のない目、見る角度の少しの違いで、限りない慈愛をたたえているようにも、残忍な薄笑いを浮かべているようにも見えた妖しい表情が蘇る。誘うように開かれていた両腕。胸の二十の乳房が水中を揺れる……。
自分自身の無意識のねっとりと暗い深みから、自分を思いきって引き抜くようにして池を出た。途端に高地の夜気が肌にしみた。
部屋に入って手早く衣服を着こんで食堂に戻る。運転手は食堂の隅でモーテルの従業員らしい男たちと一緒に、テレビを見ていた。画像不鮮明な黒白テレビの画面では、頭にターバンを巻いた昔のトルコの男が半月刀を振りまわしながら馬を駆って荒野を疾駆していた。男たちはテーブルの上に身を乗り出して、笑ったり手を叩いたりしている。
私の運転手は酒ビンを手もとにおいて飲んでいた。ラクというトルコの透明な強い地酒で通常水で割るのだが、水と混ざると白く濁る。彼は空いているコップを私の前において、少しだけ透明なラクをついでからアルミのヤカンの水をたっぷり注いだ。水はたちまち白くなった。
私は急いでひと口飲んでから小声で言った。
「温泉池の中に神殿があった。女神の」
彼は声を立てないで笑った。
「女神じゃない。|水の精《ニンフ》の祭殿」
「ばらばらに壊れてた」
「地震で。昔のことだが、何度も。それでヒエラポリスも減んだ」
「ヒエラポリス?」
「この台地にあったローマ時代の都市だよ」
観光客専門のこのハイヤー運転手は、ガイドも兼ねている。
「有名な郡市でしたね。クレオパトラ女王もわざわざ遊びにきて、この温泉に入ったと言われてる。アントニウスと一緒に」
「あのクレオパトラが……」
急なラクの酔いとともに、エリザベス・テイラーが演じた映画のクレオパトラの妖艶な映像の記憶が見え隠れする。この男のガイド的知識が本当なら、私はあの古代エジプト最後の女王と同じ温泉に入ったことになる。だからあの池には女性の気配が濃すぎるのだ……。
「モーテルの後には地震で壊れたヒエラポリスの廃墟がそのままあるよ」
とベテランの運転手兼ガイドは落ち着いて言った。
テレビ見物の男たちが急に歓声をあげた。おヘソがのぞくトルコの古い民族衣裳の若くきれいな娘を、半月刀の男が馬上に抱きあげて走っていた。トルコの時代劇なのだろう。時代感覚が乱れて、遠く離れた幾つもの過去の時代が重なり合った。
私はコップからもうひと口ラクを飲んでから、立ち上がって言った。
「これからその壊れた街に行く」
「真暗だよ」
と運転手は言ったが止めはしなかった。男たちのひとりに何か言った。男は食堂を出てすぐに戻ってきた。男が持ってきた大型の懐中電灯を渡しながら、「注意して」とだけ言った。
少し脚がふらつくが歩くことはできた。よろめいているのは現実感の方だ。崖に沿って積み重なる水盤の最上段がぼんやりと白く見えるほかは、本当に真暗だった。荒れた道の先に、かなり大きな建築物らしい黒い影が幾つも静まり返っている。エフェソスのようには手入れされていないらしい古い石畳の道は荒れ放題で、雑草が傾いたり割れたままの石板の間から生い茂っている。
少し闇に目が馴れると、狭い台地の奥、山の斜面の下に、円形劇場らしい丸く積み上げられた石の堆積がかすかに見え、道の近くに凱旋門風のアーチが崩れ残っていた。だが懐中電灯の光を当てると、積み上げた石材はずれて隙間だらけだった。アーチの形をかろうじて保っているのがふしぎなくらいだ。それにこの都市の石材はエフェソスのように滑らかに白くなく、ざらついた暗い褐色。懐中電灯の明りの範囲は不鮮明に小さいが、どの方向に向けても崩れたあるいは崩れかけた暗褐色の石材の堆積と散乱だけ。
廃墟のにおいというものがある。乾いた土地の石造りの都市や建築物の場合、直接鼻腔を刺す臭気はないはずなのに、減亡のにおい、荒廃の気配が、ひしひしと全身の気孔を通してしみとおってくる。そこには壊滅をもたらした戦乱や自然災害の轟音や唸り、逃げまどう人々の悲鳴、叫び声などの音、住み馴れた都市や家を棄てて去る人々の痛苦の思い、焔の色、血の味などもまじり合っているけれど、そうした有形有情の知覚を超えた、無機質の、一種形而上的なにおい。本来のカオスに還った物質そのもののにおい。
人影がすぐ傍まで近づいていたことに、私は全く気がつかなかった。いきなり意味不明の、それも険しい言葉が背後から聞こえた。振り返ると二つの人影が立っていた。立っているだけでなく、ひとりは自動小銃を腰のところで構えて銃口を私に向けていた。相手も懐中電灯を持っていて、私の全身を照らしながら、またトルコ語らしい言葉をきびしく言った。
私はモーテルの方角を指さし、そこからここに来た、と手ぶりで示した。こういう思いがけない苦境には、ベトナムの戦争特派員だったころ何度も遭遇している。闇の中では人は過度に神経質になるので危険だ。
わかったようだった。「パスポート」と緊張した口調で言った。温泉から出て肌寒かったのでサファリジャケットを着こんだのが幸運だった。内ポケットから旅券を出して手渡した。相手は懐中電灯の明りで私の旅券を丹念に調べていたが、急に態度が変った。
「ジャパン?」
運転手から教わったばかりの僅かなトルコ語のひとつで答えた。
「エヴェト」
イエスという意味だ。
相手は懐中電灯で自分の帽子の徽章と胸のバッジを照らして見せた。声から想像したよりもっと若かった。兵士か武装警官らしい。それから手ぶりと身ぶりを繰り返した。このあたりに、拳銃をもった悪い人間がうろついている、あなたは早く宿に戻った方がいい、という意味らしいと了解した。
「テシェキュール(ありがとう)」と礼を言い、「アラハ ウスマルラドゥク」と難しい発音の別れの言葉を、かろうじて言って、手を振りながらモーテルの方向に歩いた。
こんな夜の廃壗の中で武装警官につかまりかけたことも、簡単に釈放されたことも現実感がなかった。浮き浮きした気分になる。かろうじて立ち続けている凱旋門アーチのところまで引き返してから振り返ると、若い武装警官の懐中電灯の明りは崖の上を遠ざかって消えた。私は向きを変えて廃墟のさらに奥の方へと戻った。
荒れ果てた石畳の道が続き、大型建築物の跡が減って雑草の茂みが増えた。ヒエラポリスというこの亡んだ都市の名はどういう意味だろうと考えた。ヒエログリフというギリシア語由来の、禅聖文字という意味の言葉がある。ヒエロ……というのは聖なる、とか神官の、という意味だった気がして、ヒエラ……の意味が確かにはわからないまま、勝手にここは「神聖都市」という名前だったことにする。それにしてもなぜここが神聖なのか、クレオパトラまで遠路わざわざ入りにくるほど有名だった温泉、その岸の|水の精《ニンフ》の祭殿のためか、あるいは後世トルコ人たちが|綿の城《パムッカレ》と名づけた、あの純白の水盤と下向きの石筍が連なる神々しいまでの崖のせいだったのか。
闇が濃くなり、廃墟の気配がいっそう透きとおって感じられ、ほぼ真直の道路がいつのまにか石畳ではなくなっていた。懐中電灯で両側を照らすと、道に沿って丈の低い半地下建てのようなとても小さな家が並んでいる。どれも頑丈そうな部厚い石造りだが、石板の屋根がずれているところがあり、完全に屋根が地面にずれ落ちて、細長い四角の小部屋がからっぽのまま内部を剥き出しにさらしているところもある。さらに小部屋の本体そのものが地面から押し上げられているところもあった。
小部屋の半分が地面にめりこみ、他の半分が地上に高く持ち上がって、ほとんど四十五度の角度で斜めになっている前に来た。そしてやっと気付いた。石の細長い小部屋と見えたのは古代の石棺だ。ここは墓地だった。だが墓地の陰気さが全く感じられない。死者や死霊の気配が微塵もないのは、大地震によって墓地の形態そのものが壊されて廃墟一般と化し、そのうえ棺内部の隅夜まで一物も残らぬ完全なからっぽだからだろう。
武装強盗と間違われて銃を腹に突きつけられたあとの陽気な気分が尾を引いていた。二千年前の石棺。懐中電灯の明りでよく確かめてから、斜めになって蓋のない棺のひとつに、私は入りこんで構たわる。何という大きく頑丈な石の箱だろう。石棺の傾いた下端に両足をつけて、頭の先になお一メートル余裕があり、幅は私の体を三箇は収められる。暗い地中深くではなく、上体は宙に突き出ている。顔は斜めに空に向いていて、星々のきらめきが高く固い。
神聖都市の墓地。仄暗い温泉池のなま温かい水中で、ひきこまれるようだった妖しく濃い気分が急速に薄れてゆく。星空に向かって開いた石棺の中は、思いがけなく安らかだった。懐中電灯を消した。時間も消え、静寂さえ気化し、そして地ひびきのような音、多数の人間の重い足音が棺の内側にこもって聞こえてきた。
夕方運転手が言っていた、東へ、ペルシアへ、インドへと向かうアレクサンドロス大王の遠征軍の足音に違いない。大きな厚い楯と長い槍をもって甲冑で身を固めたマケドニアの重装歩兵密集部隊が、崖の下の街道を行進してゆく。腰の短剣が触れ合い、甲冑がきしむ音。陣中で夜々ホメーロスの『イリアス』を読んだという、アリストテレスの愛弟子の若い大王に率いられた歩兵三万と騎兵五千の長い長い列。
それはギリシア文化の理念が、古代オリエントの専制帝国の版図に広がる音。振り返られた歴史ではなく、歴史そのものが創られるナマの地鳴り。個人の生死、一都市の運命を超えるその重いリズムが、神聖都市の廃墟の墓地の、石の永遠と共鳴し続けている。
 翌朝、廃墟を乗せた白い崖を降りて、アレクサンドロス大王の軍隊が通った山間の街道を、私たちは車でさらに東へ走り続けた。山々は高く険しくなり、街道はその間を屈曲して、老練な運転手も緊張し続ける。山々の頂が幾度も灰色の雨雲に隠れた。
その夜遅く、中部高原の古都コニヤに宿泊。十二世紀セルジューク・トルコ帝国の首都となった大きな街だが、山間の街道で疲れきって、私は少量、運転手は多量のラクを飲んでそのまま寝た。
翌日、いよいよ目的地のカッパドキア地方に入る。イスタンブールを発ってから四日目、距離にして千五百キロを越す道を走っただろう。黒海と東地中海に挟まれてエーゲ海に突き出したトルコ半島のほぼ中央部。乾燥した高原地帯で、エーゲ海岸とは風景も空気の感触も全く異る。地中海世界ではなく、ユーラシア大陸の西端という感じ。住民の体形や顔立ちもギリシア風が薄れて、モンゴリアンの感じが多くなった。
オリーブの林はなく、アーモンドの花も咲いていない。青黒い糸杉に代って同じように細長く天を指すポプラが道路端に並び、まだ芽を出していないポプラの細い裸の枝に、私は少年時代の朝鮮半島を強く懐しく思い出す。高い山はなくなったが、コニヤからの道程はまだかなり長かった。東京中心部のビルの谷底で夜毎に育てたカッパドキアの想像風景がいよいよ濃くなって、途中の窓外の景色はほとんど目に入らない。
「やっと来たよ」
と運転手が車を停めてハンドルに両手をついたのは、両側を切り立った断崖に挟まれ、その間に小さな川が流れ、流れの傍にポプラがかたまって生えている谷間だった。高さ数十メートルもある崖の半ば近くまで、点々と穿たれた洞穴が数え切れないほど見えた。だがその洞穴のほとんどは住民たちの住居になっていて、原色の多い服装の女たちの姿が、しきりに見え隠れした。崖の小道を下の小川から水を運び上げる女たちも多い。活気があるとは言えないが、生活のにおいがしみついている。
「これがカッパドキアか」
と私は失望しかけた。
「ここはまだ入口だね」
運転手は私の性急さを軽くたしなめるように微笑して、のんびりと言った。
予約しておいたカッパドキア地方中心部のホテルのあった町が、ネブシェヒールだったかユルギュップだったか、覚えていない。というより小さな町の名前など意識になかったように思う。中程度の設備は整って、しかも観光ホテルのいやらしさのないさっぱりと気持ちのいい宿舎だったことは記憶に残っている。
ホテルにトランクを置いて、すぐにまた車で出た。
「カッパドキア」というのは古代ローマ人が名づけた広範囲の地域名であって、点としての地名ではない。私が写真で見て驚いた尖塔状奇岩の谷は、幾箇所というより幾十箇所にも不規則に分散してあるのだった。
「あのヘンな岩のある谷に行ってくれ」
と言ったとき運転手が当惑したのも当然だった。
「谷は幾らでもある」
と運転手兼ガイドは咄嗟の判断に迷ったときの癖で、あいまいに笑った。
「じゃあ、どれでもいいから、日の沈まないうちに行けるところへ」
と私は幾分苛立って言った。だがどの方角に走ったかわからぬままに、よく舗装された道路の前方に急に広い谷間が開けたとき、苛立ちなど一瞬にして消えた。
正確には谷間ではない。山はない。上の方が広く平坦な台地が広がっていて、そこが本来の地面で、その一部が雨水に浸蝕されて低くなったところ。その台地と浸蝕低地との間の斜面に、円錐状の岩の群がびっしりと林立しているのだ。
ちょうど夕日が広い低地の奥の方に沈みかけていて、その光がゆるやかな斜面を一面に照らしていた。多分岩が白っぽいのだろう、夕日の中の尖塔状の岩群は、ピンク色に色づいて見える。最初の崖と異って、人が住んでいる気配は広い低地のどこにもないが、東京で想像した凄然と荒涼たる光景とも少し違っていた。
岩の塔がそそり立つ斜面の下までは近寄らなかった。広い遠望を夕日の光が翳るまで、車を停めて眺めた。道路端の雑草は枯草のままで、目に見える全体が乾いて粗い岩と土ばかりだったが、それが穏やかになまめいても感じられるのは、春の遅い高原地帯にも新しい季節が訪れ始めているせいだろう。
数え切れぬ奇岩の並ぷ風景が、初めてなのに初めての気がしなかった。確かに異常で奇怪なのに、懐しいという気分が自然に湧いてくる、意識の最深部から記憶を超えて。
その夜、運転手は透明な酒がひとりでに白濁するのを楽しみながらラクを何杯も飲み、私は地元でとれる酸っぱい葡萄酒を何杯も飲んだ。車の窓から見かけた荒れて乾いた地面を這う葡萄の木。棚はない。
旅行案内書によると、この近くの火山が何百万年か前に大噴火を起こし、火山灰がこの地域全体に降り積もり、長い年月かかってそれが凝灰岩の厚い層となった(あの平坦な大きな台地の平面がその層の表面らしい)。さらに長い年月のうちに乏しい雨水が地層の割れ目や隙間からしみこんでもともと脆くて粗い凝灰岩層を浸蝕し、幾らか固い部分だけが残って雨に洗われ続けて、頂の尖った円錘形の凝灰岩峰群ができた。
翌日は終日、運転手の気の向く方角に車で走ったのだが、運転手自身も幾つの尖塔群の斜面があるのか、どの方角に行けばあるのかくわしくは知らない。道路は舖装された部分もあり、舖装のない曲りくねった茶色の土の道もある。台地の上の平坦な道があり、斜面の坂道があり、低地の水の涸れた川底のような道もある。百キロ四方ぐらいの地域を端まで走った気がするが、同じ地域をぐるぐるまわっただけのような気もした。
地図上の整然とした平面の感覚は忽ち消失した。方位の知覚も乱れた。台地上の舖装された道路の途中には幾つもの人家の集落があり、葡萄畠もあり家畜もいて、そこだけを眺めまわしていると、その日が雲ひとつなく晴れ上がっていたためもあって、地味肥沃とは言えないけれど一応穏やかな農牧混合の高原地帯としか思えない。だが学校帰りの子供たちが鞄を抱えて歩き、老人が牛を曳いてゆく道を走りながら、ふと台地の下を見ると乱立する無人の尖塔群が日ざしに輝き、尖った影が交錯しているのだ。大気による風化作用のない異星の地表にいきなり降り立ったみたいに。
さらに進むと斜面を下る道があって低地に下りる。地下水に近いせいか新芽をのぞかせ始めたばかりの一列の木立があり、その向こうの斜面にはアメリカ・インディアンの先の尖った獣皮のテント群そっくりの光景が浮かび上がる。見える限りの台地の表面が真っ平らなだけに、岩峰群の頂がすべて真直に天を指しているその垂直のヴェクトルの密集が、目に、肌に、心に刻みこまれ焼き付けられるのである。
同じ凝灰岩の塔といっても、日ざしの角度によって、あるいは岩そのものの粗密の差ないし了解不能な岩質の違いによって、場所毎に岩峰群の色が微妙に異る。骨の列のように白々と乾ききっているところがあり、砂岩に似た明るい茶色の場所があり、陰々と暗い褐色の谷間がある。何のせいか全く想像もつかない草色を帯びた岩峰の斜面、不気味に青白い色彩に一面染まった場所さえあった。
岩の高さも三、四十メートルに達するゴシック教会の尖塔群そのままのもの、三、四メートル程度の小型のものまで様々だが、場所毎に高さはほぼ一定している。単に頂が尖っているだけでなく、その上に丸い岩をのせたような、マツタケ型の岩もある。
そんな色や形や高さや一群の数の違いを見せながら、基本的には円錐形の凝灰岩の林立する斜面ないし谷底が、全く不規則に散在している地域。次々に走りめぐるというより、至るところで出合い頭にそんな光景にぶつかり続けていると、この一画に、大地そのものの反重力、天へと伸び上がる力が密集しているように思われ、自分の体の中、意識の奥からも同じ天への志向が、頭蓋骨を突き破ってタケノコのように伸び出す気さえした。
だがそれは単に天然の奇景だけではなかった。少し注意してみると、その自然の尖塔には明らかに人工の四角な穴があいている。全部の岩にではない。全く穴のない場所が幾箇所もあったが、まるで髑髏そっくりに下部に口を思わせる黒い穴、中程にうつろな眼窩そのままの小さな穴がふたつ並んで穿たれた岩が、数十も集まっている斜面が何箇所もあった。ここには確かに人間が、それも想像以上に多数の人々が岩に洞窟を掘り抜いて住んだのだ。
とりわけ洞窟の入口と窓の穴が目立つ岩の多い斜面の下へと、私たちの車は苦労して降りた。荒れて乾いた地面。いじけた雑草が苔のように地面にしがみついている。刺だらけの茨がかろうじて生きている。結構人が通れる小道が残っている。南向きの斜面らしく昼過ぎの日ざしが岩の表面のざらつきを、背後の斜面の砂状に風化した土粒のひとつひとつを照らし出している。そして入口と小窓の穴がぽっかりと黒い。
<img src="img/Cappadocia.jpg">
地面から十段ほどの石段も刻み出されていた。その角は風化している。人ひとり立ったまま十分に出入りできる長方形の出入口。中に入ると六畳ほどの四角の空間。入口から日ざしが射しこんで遠くから見たほどには暗くない。目が馴れるにつれて、四方の壁に、ゆるい丸天井に、岩を掘り抜いた|鑿《のみ》の痕がひと打ち毎にはっきりと見分けられた。浸蝕を免れた岩は周囲より固い部分だったのだろうが、本来凝灰岩の組成は脆く、鉄製の鑿ひとつあればひとりでも掘ることはできそうだ。
入口の部屋はがらんとして何もない。木製の道具類があったとしても、朽ち果てるのに十分すぎる時間がたっている。奥に小さな階段が掘り抜いてあった。上体を屈めねばならないほど低く狭い。のぼると二階も部屋になっていた。下の部屋より小さい。一隅に寝台らしく一段高くなった細長い長い場所が設けられ、反対側の壁に四十センチ四方ほどの小窓が外に開いている。
一日に幾度も脆いて礼拝するほど熱心ではないが、一応イスラム教徒のトルコ人運転手は、キリスト教徒の遺跡には全く興味がない。塔の外をぶらついて待っているのが窓から見える。階下に比べて二階は意外なほど明るかった。午後の日ざしが掘り抜きの小窓から真直に射しこんで、鑿の痕だらけの粗い床の面に乱反射して岩屋いっぱいに広がっている。
寝台に使われたらしい横長の凹みに腰をおろした。数年前、中国北部の乾燥地帯で山腹をえぐり掘って、そこに木の柱や板を使って部屋を作り、ガラスもはめこんで、住民が生活している場所を見た。インドでは奥に仏像を祀った石窟群も訪れたことがある。だがここには岩窟の中に何もない。本当に何ひとつないのだ。ただ明るくからっぽなだけ。そのために、インドの岩窟の陰気さはなく、妙におしつけがましく威圧的な暗さもない。前後左右上下、ただ粗い組成の岩の単純な沈黙。
だが遥か東京の高層ビルの谷底で毎夜想像していたその場所にいまいるのだ、という信じ難い思いの興奮が鎮まるにつれて、壁面や床に刻みついている鑿のひと打ちひと打ちの痕を目で追いながら、ここを先端が硬く尖った金属棒で掘り広げては、岩の破片を外に運び出し続けた少なくともひとりの人間がいたのだ、と次第に強く実感されてくるのだった。
それはヘラクレイトスがこの石畳の街路を歩いたのだ、クレオパトラがこの温泉に入ったのだ、という実感とは、少し質の違う感動だった。ヘラクレイトスはみずから石畳を敷いたのではなく、クレオパトラも温泉のまわりの石を並べたのではない。だがこの岩窟は、名前を知らない男が、自分の手で掘り抜いたものだ。彼の肉が岩とぶつかり岩を砕いたその痕が、そのままに残っている。
ぼんやりとひとりの男の姿が淡い影のように浮かぶ。だが顔がない。肩幅も身長もわからない。髪の色さえ見えない。ぼんやりと運転手の顔と髪の色を思いかけたが、すぐにそれは違うと気づいた。彼はトルコ人だが、紀元後数世紀の頃、この不毛の奇岩の谷に住みつこうとしてこの岩の部屋を掘ったのは、ギリシア人かあるいはシリア人、ユダヤ人か、初期キリスト教徒だったことは間違いない。だが私はギリシア人を知らない。いまのギリシア人は古典期のギリシア人とはかなり違っているといわれるのが事実なら、この谷に来たギリシア人の風貌はもっとわからない。
顔も体つきもわからぬ男が、向こう向きに、頭には長衣とつながった|頭巾《フード》をかぶって、長衣の裾もフードも岩の粉にまみれて、床に膝をついて鑿を打ちこんでいる。壁を広げている。荒い息遣い、汗の臭い……。
いまならよくわかる。その姿は後年、手術直後の夜々、病室の窓外に見た幻覚の人々とそっくりだったことが。顔も名前もはっきりしないが、遠いいつかどこかですれ違ったことのある気がする懐かしい人。意識の記憶を超えたふしぎな現実感。
そうだ、顔も名前も髪の色もわからないが、ただひとつ、その男がなぜこのような岩の中に住みつこうとしたか、その意志を私は知っている。岩は丸くても角張っていてもだめだ。インドの石窟寺院のように大きな崖の中途でもいけない。それは個々に頂が尖って天を指していなければならない。直立する巨木の|洞《うろ》でも、木造の塔でもいけない。外界と隔絶された硬い石の尖塔。
ここカッパドキアの凝灰岩の奇岩群は、まるで天が準備してくれたようなものだ。そんな、ふしぎな場所が、ローマ世界の東の端にあるそうだといううわさを伝え聞いたときの、ここまでの長い山間と高原の道を歩き通して、やっとうわさに聞いた以上の神秘的光景を眺め渡したときの、水も食物もほとんどない不毛の火山灰台地で、何か月もかかって岩窟をひとりあるいは数人で掘り抜いて、そうしてついにこの石の寝台に腰を下ろしたときの、彼のよろこびと心のたかぶりを私は感じとることができる。まるでもうひとりの自分のことのように。
彼が掘り続けた鑿の音とそのこもった反響が、意識のはるかな奥で聞こえる。壁に小窓を掘り抜く最後のひと打ちで、ここに射しこんだ最初の光が見える。あるいはそのひと打ちは夜のことであって、ぽっかりと穿たれた穴から星々の幾つかが見えたのかもしれない。ここに射しこんだ最初の光が昼の日ざしであろうと、深夜の星の瞬きであろうと、彼がその瞬間、床に脆いて石の粉だらけの頭を垂れ、|肉刺《まめ》がつぶれた血だらけの両手を組んで、天に祈ったことを、私は自然に想像できた。
ぎりぎり彼をこの最果ての谷に導き、岩に穴を掘らせ、この場所で死なせたものは何だったのか。彼ひとりではない。当初は何百人程度だっただろうが、やがては何千人、セルジューク・トルコの大軍がアナトリアに進出してきた十一世紀頃には、この一帯の奇岩の谷の住人は一万に達していたともいわれている。ローマ帝国が東西に分裂した四世紀頃からと書物には書いてあったが、古代ギリシア・ローマ文明が崩壊し始めたもう少し前の時期から、最初の人たちはここに来はじめていたに違いない。
単に時代の政治的社会的混乱を逃れてきたとは思えない。避難地としてはこの地は余りに不毛すぎる。谷々の岩の頂が鋭く天を指しているように、心の中に天への想いを強く激しく抱いた人たちがこの谷々を選んだのだ。
ここに坐って改めてそう思う。
 三日間、谷々をまわる。その間のホテルの部屋、食事などは一切記憶から脱落している。前述したように谷々の互いの位置関係、方位さえ意識にはなかった。思いがけなく次々と出会う谷間ごとの奇岩の光景に、そこに穿たれた岩窟に、そのすべての岩窟がいま無人なことに、私の意識は憑かれていた。
次第にわかってきたことは、この岩窟群がほぼ千年近い長期にわたっていて、コンスタンチノープル(現在のイスタンブール)を首都とする東ローマ(ビザンチン)帝国が安定した六世紀以後に拡大整備されたと思われる比較的大きく広い岩窟と、初期のままの原始的な岩窟との違いがあることだった。後期の広い岩窟は内部に幾本もの柱があり、ドーム状の天井があり、彩色されたビザンチン様式のキリスト教壁画がいまも残って、岩窟教会あるいは岩窟寺院と呼ばれ、主に西欧からの多くの観光客を集めている。だがキリスト教美術史上、それらがどんな意味と価値があるのか、私には知識も興味もなかった。頭部のうしろに光輪を負って眼の大きなキリストや聖母や聖人たちの、紫色と金色の多い聖画の前を私は素通りした。そこは少なくとも何十人も入って並べるほど広く、明らかに教会と聖職者という組織のにおいがした。
私が興味と共感と生々しい謎を覚えたのは、初期の、小さな、掘り抜かれたままの、ひとりないし二、三人程度しか住めない岩窟だった。そしてそのような古い岩窟で、私はけばけばしい聖書物語の彩色壁画ではなく、壁に刻みつけられたままのふしぎな抽象的記号を幾つも見つけたのである。
東京でも、この谷の写真を眺めながら、こんな尖塔状の岩を掘り抜いて住むほどの人間が、どんなことを感じ考えたか、孤独で単調な長い日夜に、その思いを何らかの形にして残したのではあるまいか、ということをしきりに想像した。それほど尖鋭に聖なるものへの思いに駆られた人たちが、聖書のさし絵のような絵を描くはずはない。たとえ十字架のキリストにせよ、何らかの具象つまりこの可視的世界の一事物の形を描くとき、絶対は相村化され、聖なるものは地上化、肉眼化される。従ってそれは何らかの抽象的な、地上物に対応しない図形ないし記号でなければならない、というのが私の想像的直観だった。
純粋に聖なるもののイメージ——それが私をこの地まで長途の旅をさせた最も強い理由だ。人間化されない、少なくとも聖職者組織による布教の、定例儀式の道具にダラクする以前の、最初期キリスト教徒たちの魂の原イメージ。
実は数年前に、私はオーストラリア中央部の|原住民《アボリジニ》の聖地のひとつ「エアーズ・ロック」の巨岩で、自然にできた浅い洞穴の壁に、何千年前のものという簡単な線刻画を見ていた。そこには大きくトカゲやヘビなどトーテム生物の輸郭画とともに、小さく二重三重の同心円記号がさりげなく刻みつけられていた。かなり離れた大岩の岩肌にも同じような同心円記号を幾つも見つけた。それは本当に単純正確な円そのものであって、肉眼で見る太陽や星を思わせる焔や光芒のようなものは全くなかった。それは恐らく単なる点を除けば、この地上の肉眼世界に対応物をもたない無意味な形、天上の太陽や月の本体にのみ対応する宇宙的な形だった(太陽系の惑星探査機ボイジャーが写した、暗黒の宇宙空間に浮かぶ惑星たちの球体の姿は、何と不気味に美しかったことだろう。
オーストラリアからかくも離れたトルコ半島中央郡の岩窟の奥で、同じ同心円の記号に出会おうとは。ただしここの同心円には、内側に四つ葉のクローバーの葉に似た+※[#底本ではクローバー型の十字記号]の形が刻まれたものが多い。もちろん中空の同心円だけもあり、四つ葉のクローバーだけのものも少なくない。縦横二枚ずつの葉の組合わせは確かに十字架の十字形とも考えられるけれど、小アジアからアフリカの北東部にかけて古来十字形が聖なる形として伝えられていた、ということをどこかの本の中で読んだ記憶があり、私としてはその基本的な太古の聖なる形の十字形から、キリスト教の十字架伝説、両腕を左右にひろげたキリスト磔刑のイメージも作られたように思う。
千年近く見棄てられた尖塔状の岩の内部の壁に、いまも残る沈黙の同心円、十字の形は、他に何の壁画も装飾もないがらんどうの岩部屋の場合、とりわけ印象が強かった。後期の岩窟寺院の内部には様々な装飾模様も描きこまれていたが、より古いと考えられる小さな岩部屋の内部は、小窓と階段と寝台の凹み以外ただ直方体ないし立方体の閉じた空間だけ。そこに壁の記号が、安易な感情移入も理解も共感も超えて、厳然と在る。その部屋を作り、その記号を刻みつけた人、および次々にここに住み継いだ人々の生死を超えて、この世界には絶対の、永遠の何かがあり、そのことが聖なることであり、その記号が聖なるものだ、と即座に感じられるのだ。
円はすべてを包みこんで安定する根源的なるもの、十字は垂直の縦軸と水平の横軸の交点あるいはその両軸に引き裂かれる人間意識の原型、という風に受けとることができようが、そういう思いつきを超えて、それらの形と記号は極限まで単純化されているだけに、それを刻みつけ、それを意味ある唯一のこととして生きて死んだ人々の精神の|勁《つよ》さと集中力がひしひしと伝わってくる。
同じグループや近隣のグループ内の他の個体との複雑微妙な関係への顧慮と感情なら、ゴリラやチンパンジーたちも十分にもっている。ごく簡単な道具もつくる。だが目に見えない彼方に意識の視点を移して逆にこちら側の全体を、自分自身も含めて考えること、考えずにはいられないことは、人間だけの営みであり、呪いでもあろう。そういうぎりぎりの人間意識の|徴《しるし》が、無人の岩窟の壁に刻みこまれている。ヒエラポリスの都市も神殿も大地震で倒壊したけれど、この石壁の記号は、人類が滅んだあとまでも残り、偶然にここを訪れた他星の生物も、彼らが十分に精神的であれば、この惑星にも精神的生物が生存したことを、この記号からだけでも即座に察知するに違いない。
(このトルコ旅行のまたさらに数年後、かつての大文明国ペルシアの地イランを訪れ、そこの博物館で古代ぺルシアのゾロアスター教の主神アフラ・マズダのシンボルを見たが、それは三重の同心円の両翼に鷹の翼、下部に尾羽がついた形だった。また腰の巨大な大地母神粘土像の、ヘソと両腿にもそれぞれ三重の同心円の印がついていた)
そうして私が谷に降り、岩窟内に聖なる記号を探し歩いて戻ると、トルコ人運転手は口に出しては言わないけれど、何でそんなつまらないものを探し歩くのか、という顔で退屈しきっていたし、台地上の道路で見かける人たちもすべてイスラム教徒のトルコ人である。この谷に住みついて記号を彫った人たちはただのひとりも、影さえもない。彼らは多分ギリシアから、シリアからあるいはガリラヤ地方から旅してきた栗色の髪の人たちだったろう。その人たちの影さえもいまはないという事実が、余計彼らの極限的な精神性を純粋に際立たせるのだった。食って生きて死ぬだけではない人間であることのギリギリの何かを、惻々と感じさせるのだった。
 最後の日は夜まで谷を訪れた。そこは開けた斜面ではなく、両側に崖が切り立った深い谷だったが、その下に私が立って両側の崖下の小道を運転手に懐中電灯で崖を照らしながら歩いてもらった。谷の底には高い樹も幾本かあって、陰々と風が吹きこんでいた。両側の崖には人工の岩窟が並んで黒々と口を開けていた。私たち二人以外、谷の全体は無人だ。その口を開けた穴の中のひとつひとつに人骨が横たわっている気がした。ローマ郊外|地下墓地《カタコンベ》の巨大版のようだ、と考えながら、こんな気味悪い黒い谷間に住みついて死んでいった人々のことを、改めて本気で考えてみようとした。
何から彼らは逃げてきたのか。キリスト教徒であるために追われ捕えられ処刑されたのは、ネロ皇帝の頃の比較的短い期間の、限られた地域だけのことだったと思う。彼らが本格的にここに来始めたとされる四世紀頃には処刑の危険はなかったはずである。
では「ヨハネの黙示録」を書いたヨハネのようなユダヤ系知識人たちによって、新しいキリスト教共同体と新約聖書に持ちこまれたユダヤ教的終末諭感覚が、ローマ帝国を含めたヘレニズム文明の没落感覚と重なって、彼らにこの不毛の僻地への逃避を選ばせたのだろうか。「死海写本」の発見から明らかになったユダヤ教エッセネ派の人々が、来たるべき神の国の到来を待望して、死海の岸の不毛苛烈の荒地に閉じこもったのと同じように。つまり滅びゆく文明の悪徳から去って、粗衣粗食のぎりぎりの生存条件の下で、信仰だけを研ぎすますことによって、終未を免れ、新しい神の国に招かれる資格を得ようとしたのだろうか。
多分そうだったのだろう、とその最後の夜の黒い谷では、私はそう考えた。だが終末論的パラノイアないし集団ヒステリーは、いつの時代でも人類に底流してきた。蛮族が侵攻し、ペストが流行し、ハレー彗星が姿を現わす度に、千年紀が終わり世紀末が訪れる毎に、終未的恐怖に人類は襲われてきた。カッパドキアに隠れ住んだ人たちだけが、とくに終未に怯えたとは断定し難い。
むしろ最初にカッパドキアの谷まで辿りついた人たちは、この奇岩の不毛の地をもっと積極的な意志から選んだ、と思えてならない。後期の広い岩窟寺院を別にすると、多くの岩窟は精々二人、恐らくはひとりが掘って住んだとしか思われないほと狭い。場所によってはその岩の群は、窓越しに話が出来るほど相接して立っていて、住人たちは互いに行き来し助け合って生活しただろうと思われるが、広い谷の岩峰のすべてに岩窟が掘られてはいなかった。すぐ近くに隣合って住んだのは十人か二十人か多くて三十人程度の印象だ。そして頂が尖っているという形は区別し難いほど似ながら、各岩はそれぞれに独立した感じを与える。それぞれの岩がひたすら天を志向する個尺の意志のきびしさそのものに見えるのだ。後期の岩窟寺院を別にすれば、そこに何らの組織的なにおいはない。
帰国してから『未来への遺産』を読み返すと、カッパドキア全体の岩窟に描かれ、あるいは刻みこまれた図像のうち、具象的なキリスト教絵画は実に二〇パーセントに過ぎず、残りの八〇パーセントは抽象的な記号だと書かれていた。何も壁に残されていない岩窟も多数あったので、私自身の記憶では抽象的記号がそれほど多くの割合を占めるという印象ではなかったけれども、四世紀にはすでにキリスト教は聖像、聖画の具象表現を認めていたことを考えると、四世紀より早い時期に初期の岩窟はつくられていたことになり、あるいは偶像崇拝嫌悪の気風、つまり聖なるものへの絶対的志向が長くこの地では残り続けたことになる。
そうなのだ、この天を指す奇岩の地は、天への思いの純粋すぎる人たちの場所だった、と私は思う。
聖書研究学の最新の傾向は、生存中のイエスはのちに福音書が伝えるような奇蹟の人、神の子キリストではなく、当時のヘレニズム世界に広く有名だった流浪の人生哲学教師「|犬儒《キニク》派」に近い人物だったと想定し、その言行録を記した短い原本Qの存在を推定している。ユダヤ教的終末論に侵されたキリスト像をつくり上げたのは、マルコ以下の福音物語作者たちだったという(バートン・L・マック著『失われた福音書——Q資料と新しいイエス像』)。
一九四五年に上エジプトで発見されたトマス福音書を含めた五福音書は、一世紀末頃までに成立したとされている。するとユダヤ教終末論に染め上げられ、キリスト教団の聖職者組織に組みこまれる以前のQ言行録の信者、イエス生存中の信者あるいは直接にその影響を受けた最初期のイエス信者の流れを汲む人たちが、すでに一世紀末ごろからカッパドキアに入りこみ始めていたのではないか、と想像したくなる誘惑をおさえ難い。
ギリシア哲学の犬儒派は、後世シニックあるいはシニカルの語源となった一派で、迎合的で因習的な生き方を否定して、反世俗的なホームレス生活をしながら、広場や市場で自然で自由な生き方の知恵を民衆に説いた”人生の教師”たちだった。奇蹟も行わず、終末も説かず、特定の神の宣伝もしなかった。Q言行録によればイエスが口にした「神」も天地自然の理というに近く、ユダヤ教的な恐ろしい父なる神ではない。
実はマック教授の驚くべき書物を読みながら、私の脳裏に去来したもののひとつがカッパドキアの岩窟であり、その壁に刻まれていた聖なる記号であった。非具象で宇宙的で、しかも肉眼には見えぬこの宇宙の絶対的な力あるいはパターンの存在を静かに実感させる記号。その記号だけを壁に刻んで不毛な谷で反俗的な孤独の極限の生活を生きた人たち。
彼らはユダヤ教的な終末の恐怖を逃れたのではなく、イエスという”教師”の教えを多少過激に実行しようとした人たちではなかったろうか。天を指す奇岩の中での天への志向とは、この宇宙の根源的真理への愛を意味する。|審《さば》く神、契約の神、怒りの神、妬む神への恐れではなかった。
ソクラテス、釈迦、孔子がほぼ同じ紀元前五世紀に、やはり貧しい教師、流浪の説教者として、大いなる知恵を平明に説いた。その知恵は彼らの天才が生み出したものというより、それまでの人類何万年何十万年の経験が結晶した知恵であったろう。イエスもその少し遅れたひとりだったと私は思う。穀物生産が進んで貨幣経済が一般化し政治権力が強大化し始めるとともに、富と権力への欲の誘惑によって自然とともにあった時代の知恵がおびやかされ始めたとき、彼らは同じように警告した。
「何と幸運な者だ、貧しい者は」(心の[#「心の」に傍点]貧しい者と直したのは、福音物語作者だ)。
「何を食べようと、命のことで心配するな。何を着ようと、体のことで思い悩んだりするな」
「カラスのことを考えてみるのだ。種蒔きもせず、刈入れもせず、納屋に穀物をためもしない。それなのに神はカラスを養っておいでだ」
「ただおまえたちへの神の支配を確信するのだ」
[#地から1字上げ]——Qの教本より(秦剛平訳)
このイエス自身の言葉と推定される「神」が、いかに物語文学福音書の「神」のニュアンスと異っているか。孔子が言った「天」にいかに近いか。何十万年来、人類は天の下で、天とともに生きてきたのである。その「神」をもしイメージにすれば、白いひげを生やした老人でも、高い座所に坐った最高権力者でもなく。二重三重の同心円——天の理法の、自然な人間の魂の相に近いであろう。
だかこの平明な、そして若干シニカルでなくもないイエスの言葉が、神の子キリストの権威あり気な物語「新約聖書」の文章に変えられたように、カッパドキアのそれぞれに自立して天を指していた小さな岩窟の中の単純な聖なる記号も、後期の広い岩窟寺院の壮大な具象壁面に変り、そしてその後間もなく押し寄せたイスラム教徒のトルコ軍に占領され、やがて岩窟の人たちはどこへともなく四散し消えていった。
いまは岩窟の小窓から、乾ききった凝灰岩の土粒が風に吹かれて石の床に落ちる音がするばかりである。
あの無人の静寂の中を落ちるサラサラという土粒の音を、私の耳は忘れることはできない。私の目は小窓からからっぽの岩屋に射しこむ日ざしを忘れることができない。
そしてその音、その光の色が意識の奥に甦る度に、黙々と天を指す岩の中を掘り続けたひとりの男の幻影を身近に感ずるのだ。
カッパドキアにも東京にも同じ日が昇り、紀元後数世紀も二十世紀末も、天はひとつである。
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