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聖岩 Holy Rock09

时间: 2020-02-21    进入日语论坛
核心提示:古都     3 その半年余り後の一九七七年晩春、私は新聞社の中国取材チームの一員として、初めて中国を訪れることになる。
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古都
     3
 その半年余り後の一九七七年晩春、私は新聞社の中国取材チームの一員として、初めて中国を訪れることになる。
中国はすでに、華国鋒が国家主席に就任し、ほぼ十年間にわたって中国全土を争乱の大渦に巻きこんだ「文化大革命」を主導した江青(毛沢東夫人)、張春橋、姚文元、王洪文のいわゆる「四人組」は逮捕されていた。当時中国訪問は、中国政府・党の正式招待という形でしか実現できなかった。中国側は毛沢東後の中国の安定ぶりを、「文化大革命」がいかに恐るべき不合理な争乱に過ぎなかったかということを、北京以下主な諸都市で直接われわれに見せ、日本に伝えさせようとしたのだと思う。
北京、西安とその周辺、山東省の青島、済南を経て、写真部のカメラマンを含めた取材チーム五人は、五月初めのある晴れた朝、夜行列車で杭州駅に着いた。駅からそのまま市内で最大の絹織物工場に向かう。
まず工場の中を案内されて歩きながら見た。精巧な絹織物は古くからこの地の名産品のひとつだが、そこは機械設備の大工場だった。もちろんこの時期の中国の工場にハイテクのオートメーション装置はなく、古典的な機械と工員の人力とで操業されている。とくに|捺染《なつせん》部門で、上半身ランニング一枚の両腕から胸、頸すじまで色糊に染まり汗だらけになりながら、細かな模様が透かし彫りになった薄い木版のようなものを布地に両腕で圧しつける捺染工の、細かな神経と強い筋力を要する重労働ぶりに、戦争中、工場に勤労動員された経験のある私は恐れをなした。
そのあと工場の会議室風の大きな部屋で、工場の幹部から、この工場が「文化大革命」の時期に、いかに恐怖の工場と化したか、という実情を聞かされた。同行の外務省官吏が逐一日本語でそれを伝える。
「この杭州は全国で文化大革命が最も暴力的に、ほとんど地獄のように荒れ狂ったところです」
いきなり説明者がそう切り出したとき、私たちの聞に「えっ」「おお」といった驚きの声が流れた。私たちの中には北京や上海をこれまで訪れたことのある中国担当の専門記者もいたが、私のように初めてこの地に来た者も、これまで本で読んだり話を聞いたりして、杭州が地上の天国にも等しい由緒と情緒ある比類なく美しいところだというイメージを、何となく持っていたからである。
これまで訪れてきた都市、工場、農村でも「文化大革命」中の非道な行為の数々を教えられてきてはいたが、このように直截に、あるいは劇的な表現で語られたことはなかった。説明者が痩せて顔色のよくない地獄の生き残りのように陰気な人物だっただけに、その表現は実感があった。北京から同行している外務省の通訳者がそれを感情ぬきの殊更正確な日本語で伝えるのも、別の意味で劇的効果があった。
もちろん私も|呆気《あっけ》にとられる思いだが、何か偶然の間違った出来事と思った。八百年前の最盛時には及ばないとしても、この広い中国で最も優雅なはずのこの土地で、そんなことが起こるはずがない、とこのときはまだそうとしか感じられなかったのだ。
冒頭の衝撃的な発言以外、説明者の言葉をそのままには記憶していない。ほぼ次のような事実(と信ずるしかない)が語られた。
翁という姓のひとりの工員がいた。捺染工の出身で、怠け者の嫌われ者だった。私(説明者)が捺染班の班長だったときの部下だったが、どのグループに入れても落ち着けなかった。そのくせ自分の出世の欲だけは抜群で、毛主席が「造反有理」と宣言して「文化大革命」が始まるや、工場の造反組織にもぐりこみ、幹部の吊し上げ、武闘、ぶち壊しの先頭に立って暴れまわり、上海から身を起こした「四人組」の王洪文や姚文元らにその活動が認められてお墨付きを手に入れると、工員と職員合わせて五千人もいるこの大工場の事実上の帝王、閤の帝王にのし上がった。
そして規律違反で労働再教育を受けた者、汚職で退職になった者、街のチンピラどもを集め、武器を渡して自分の私兵にして、工場の幹部たちを次々に脅迫追放し、自分に従わない労働者たちを殴りつけ重傷を負わせ続けた。ついには私設の監獄まで作って勝手に、もちろん裁判も何もなしに、反対派を片端からぶちこみ、ろくに食べものも与えないで連日拷問を加え、悲鳴をあげる犠牲者たちの苦悶をニヤニヤと笑いながら、翁は喜んで見ていた。
「その頃の毎日を考えると、いまでも体が震えて目の前が真暗になります」
と説明者の声も震えた。
この種の「文化大革命」時の造反行動の異常さについては、新聞社の外報部で当時多くの情報を耳にしてはいたが、現場で当事者から直接に聞く体験談は、たとえ誇張があるとしても迫力があった。
「翁というその男は何歳ぐらいだったんでしょうか。名前からすると老人のようですが」
私たちのひとりが質問した。説明者が初めて少し笑いかけた。
「年寄りどころか、暴れ始めた頃はまだ三十歳になったばかり、四人組の引きで浙江省革命委員会の常務委員にまで出世した時で、三十代の後半だったでしょう。彼自身がチンピラだったんです」
私はたったいま見てきたばかりの捺染工のきびしい労働を思い出していた。工場の建物も機械も古く、空気は濁って臭かった。決して快適な労働環境とは言い難い。多分賃金も安く青春は貧しかっただろう。翁という名のその若い捺染工の中では、不満とやり場ない怒りが鬱積していただろう。その怒りに「造反有理」と火をつけたのが「文化大革命」だった。遠いパリのJ・P・サルトルまで興奮させたのだ。
反抗的な目つきの、他人と協調できない暗い性格、だが異常なエネルギーを内に秘めた若者を思い浮かべる。「不吉な性質……彼のユーモアは精神的な孤独の深い洞穴のなかから噴き出してくるように冷笑的で、おそろしいものだった」という延安時代の、多分四十代だった毛沢東に対するスメドレーの印象を思い出す。
だが中国新政権の「文化大革命」批判キャンペーンはあくまで「四人組の犯罪的行為」であって、「四人組」に江青夫人は入っていても、「偉大な毛主席」は無関係、少なくとも別格なのである。北京の天安門の上をはじめ、全国の公的などのような場所——私たちが新政府の幹部と会見した北京の人民大会堂の謁見室から、山西省の洞窟内の農村革命委員会の薄暗い一室まで、額が広く禿げ上がって黄河や長江のように茫洋たる晩年の毛主席の顔写真が、いぜんとして必ず掲げてあった。
「翁は乱暴だっただけでなく抜け目なかった。工場の金や食料をばらまいて手下を集め、上の方にも賄賂を使いました。彼が工場を完全に支配した一年間だけで、工場の金七千元を着服し、他に二万元を一味とともに遊興に使ったことがわかっています」
説明者が話し終えて、私たちは重く沈黙した。初めの驚きは深くやりきれない思いに変っていた。私は翁が作ったという「私設監獄」がどんなところだったのだろう、と考えていた。コンクリートの房は思い浮かばなかった。山の中腹の天然の洞穴の入口に丸木をはめこんで並べたようなところ。洞穴の天井からは水が滴り落ち、入牢者たちは足に鉄の鎖をつけられている……。
それから翁一味の暴行を受けた犠牲者たちが、次々と会議室に呼びこまれた。
腕と肩を鉄パイプで殴打されたという、腕の捩れた中年の職員。黙ってシャツの袖を上げると肘が変形し、上腕骨が妙な風に曲がって、右の肩に左の腕がついているような、めまいを覚えた。
髪の毛を一本ずつ時間をかけて引き抜かれたという女性工員。数センチほどポヨポヨと新しい髪がまばらに生えかけているが、上体を曲げて私たちの方にもろに見せた頭頂部の剥き出しの皮膚は、掘り返された春先の乾いた畠の面のようだ。
長年細い絹糸を扱ってきた両手の指を硫酸に漬けられたという老工員の、爪が溶けて肉が爛れ引き攣った指先。
妊娠中に腹を蹴とばされて流産させられたという若い女性工員も現れた。いまも痩せ衰えて皮膚に血の気がなく、目が異常に怯えきって視線が定まらない。
「血だらけの胎児を、あいつらは笑いながらゴミ箱にほうりこんだ」
と幽霊のような女は感情のない声で呟いた。
説明者の話はどんなに凄絶でも”話”だった。だが次々と室内に呼びこまれるのは、生身の”事実”、少なくともその余りに明らかな痕跡である。予め命令されて廊下に並んでいたのだろう。
「次」と声をかけられてひっそりと会議室に入ってきて、奇怪に変形した自分の体あるいは精神の異常さを、恥じる風でも誇示するのでもなく無表情に、外国人の私たちの前にさらし、ほとんど黙ったまま、また音もなく廊下に出てゆく。
私たちの沈黙はいっそう濃くなり、よくわからない苛立ちを覚え始める。話を聞かされるのはいい。自由に取材して裏を取れない以上、話は工場幹部の「話」として書くだろう。生き証人をこんなに集めて見せることまで必要なのだろうか。彼らがどんな思いでわが身をさらしたのか、本当のところはわからないしわかりえないとしても、これも新たな精神的圧迫なのではあるまいか。
これまで他の取材地で、このように証人の身体まで見せられたことはなかった。この土地は確かこの世の基準とは(中国の中でも)何かずれたものがある、と私は改めて感じ始めていた。死者の数を言われていなかったことに気付いたが、質問しなかった。むしろ女性の髪の毛を一本ずつ引き抜くという繊細な暴力について考えていた。それは先程見た絹織物の信じ難いほど繊細な模様と色付けに通じている。反対派を一挙に射殺ないし並べて銃殺するといった粗雑で単純な暴力は、多分この地にふさわしくないのだろう。
またスメドレーの言葉を思い出していた。
延安での初対面のとき、彼女の手をつかんだ毛沢東の両手は「女の手のように長く、そして敏感だった。彼の黒ずんだ、謎のように測り難い顔は長く、額は広く高く、口は女性的だった。ほかのことはともかく、彼が耽美派であることに間違いなかった」と、いまは北京郊外の革命戦士墓地の「中国人民之友美国革命作家」と彫られた墓に眠る彼女は書いている。
テレビ局スタジオでの毛沢東との不運な遭遇のあと(何であのわずか七分間の間にその死が発表されねばならなかったのだろう)、私は『中国の歌ごえ』の毛沢東に関する部分を改めて読み返していた。
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